Noli me tangere
違和感は直ぐに覚えた。
身体を囚われている骸には精神世界こそが己の居場所だ。
気付かないわけがない。
こんな明らかな違いに。
(……眩しい)
宙を満たしている深い静かな闇に身を委ねていた筈が、突然一条の光と騒々しい音が静寂を切り開いた。
光は徐々に強くなって、闇に融けていた骸の姿も照らされて浮かび上がり、自分の輪郭を意識させられた。同時に音も近づいてきてそれが人の声と判別できるようになる。
誰かが騒いでいる。しかも複数。
「……一体、誰でしょうね?」
僕の世界に介入してきたのは。
クロームの時のように骸から渡っていこうとしたわけでもないのに、これは随分と強引に引き込まれたものだ。骸の世界への介入者に少し興味が沸く。
登場人物が複数ということは、今眠っている誰かが見ている夢かもしれない。
鬱陶しいが、せいぜい寝ている数時間のことだろう。
そう当たりをつけて、骸は半分わくわく、半分渋々と誰かによって作り出された地面に下り立ち、喧騒のもとを追うことにした。
下は柔らかい、緑の草原だ。強い生命力にあふれている。
見渡す限り果てなく続く、さわさわと揺れる色濃い草の上を骸は進んだ。
「これは……」
騒音の元は驚くことに知った顔だった。
ただし、現在知っている顔より、皆若い。幼い、と言ってもいいだろう。
「てめー、山本!十代目に馴れ馴れしい口をきくんじゃねぇっ!」
「ははっ!獄寺はいつもそうなのなー」
「ねぇ、煩いんだけど。人の眠りを妨げるなら……咬み殺すよ」
……違うのは面立ちだけで、本質は全く変わっていないようだが、一応、彼らが揃って中学の制服を身につけていることから見ても、10年は昔の姿だろう。
彼らだけではない。少し離れた所では、アルコバレーノとやはり幼い雷の守護者がバトルを繰り広げている。
「リボーン!これで最期…」
「お前がだぞ」
全てを言わせても貰えず、アルコバレーノの銃が火を吹く。
「ギャーーーッ!……ううっ!ガ・マ・ン……うわあぁぁぁん!」
……こっちも変わっていないようだ。
それを脇目に先へ進むと、ケーキを食べる女子生徒たちと少女がいた。
「イーピンちゃん、はいどうぞ」
「〇¥#×%!」
「ふふっ、美味しいですかー?」
3人は顔を見合わせて笑っている。
横で眺めている骸に気付くことなく。
そうしている間にも広い草原のあちこちに、こうした人々が出現し始めていた。骸が知っている人物も知らない人物もたくさんいて、各々の会話や行動に集中している。
間を歩く骸にも、自分たちの隣にも気を留めていない。
(と、いうより彼らにとっては周りが存在していないんですね…)
どうやら、少しずつ時系列が違うようだと気付く。
その証拠に同じ人物が違う場所に合流したり、互いに気付かずに真横をすり抜けたりしていた。
骸が無目的に歩く間にもこの空間は広がり続けて、隣合う出来事、人の数はどんどん増えていく。
大人も、子供も節操無く。
―――だが、彼らは一様に。
「10代目」
「ツナ」
「ツッ君」
「沢田」
「ツナさん」
「ダメツナ」
「綱吉殿」
「沢田綱吉」
「綱吉」
「ボンゴレ」
1つの名を、呼んだ。
「…おや?」
だが、彼らの中心に必ずいるはずの人物がいない。目の前の彼らは皆、虚空に向かって話しかけていた。
(あぁ、そうか…)
これは『彼』の見る夢なのだろう。夢の中で過去を思い返しているのだ。
主観である本人が登場しなくても無理はない。
「……夢の中まで人騒がせとはね」
骸はやれやれ、とため息をついた。
わかってしまえば、一所に留まって観察することもできる。
じっと見ていると、一つの出来事が終わるとその場所には新たな出来事が生まれ、際限なく思い出が再生されているようだった。
最初は10年前に限定されていた時間軸も、過去に未来にと振れているようで、同じ人物でも違う面立ちだったり、一緒にいる人物が違っていたりする。
骸の知らない彼の過去。
あまりにも昔のようだと、影が薄く、声も聞こえない。
これの元が彼の記憶だからだろう。人の記憶は時間が経てば曖昧になっていくものだ。
だが、骸が記憶の人々に取り囲まれてしまうほどに、常に彼は人の中心にいた。
「昔から、よくもこんなに群れているものですね」
雲雀恭弥が見たら、間違いなく餌食になるだろうと思う。
そうして、ふっと見回して……とうとう骸は、見逃せない人影を見つけた。
「……僕」
クロームや犬、千種と話している自分の姿。やはり黒曜中の制服を身につけている。
だが、おかしい。
僕はクロームと対面して話したことはない。クロームを見つけたのは、自分が囚われた後なのだから。
しかも、僕は……
「笑っている……?」
毒がなく、皮肉気でもない、穏やかな笑みだった。
骸が浮かべたことがない類の。
(……あり得ない)
確かに犬も千種もクロームも、自分の手足として共にいることを許した人間だった。
それでも、あんな風に微笑みを向ける対象ではない。
あの自分は自分ではなかった。彼の『記憶』の中に存在しないはずだ。
そして更に気付く。
ここにはこの10年に起こった、彼にとって『痛み』を伴ったはずの出来事が一つも含まれていないことに。
(単なる都合のいい回想?……違う)
賑やかに騒ぎ、笑う過去の人々。
―――“あの時のまま、ずっと笑っていて欲しい”
(そうか……!)
これは、眠っている彼の夢なんかじゃない。
骸は初めて、これが単なる回想ではなく、彼の願いだと気付いた。
ここは彼の原風景なのだ。
彼の根幹にある幸せの記憶。
彼の中で一番尊い願い。
彼が最も大切にしている、彼の心の一番深くにある場所。
―――そして、そこで笑っている僕の意味は。
骸は唇を噛み締めた。
(……君が、こんな『夢』を僕に見せるのですか。ボンゴレ)
穏やかで優しい、痛みのない世界を。
君の『幸せ』を。
……骸にとってはヘドが出る部類の夢想を。
あぁ、でも何て君に相応しく、下らなくて、馬鹿馬鹿しくて、些細で―――叶えることの難しい願いだろう。
(これが、こんなことが、君の望みですか)
僕が笑っていることが……君の。
骸は、不意に視線を上げた。
この世界では意識しないものは目に映らない。
だから、意図的に映したのだ。
―――そこには想像した通り、青々と冴え渡る空が天を覆っていた。
降り注ぐ光は優しいばかりで、見上げても、先程闇の中にいたとき思ったような眩しさを感じることはなかった。
風に揺れる草原と高い空は、その全てで骸を包もうとしていた。
温かく包み込んで、その内側で骸を癒そうとしていた。
自覚的か、無自覚かはわからない、彼の心のままに。
(……ふざけるな)
ここへ来て初めて、燃えるような怒りを感じた。
(癒されることなど僕は欠片も望んでいない)
当然だ。骸の力は全て痛みによって得てきたものであり、それを活用して世界を混沌に導くことこそ望みだった。
癒されることは過去の自分を否定すること。
痛みを失うことは、自分が無力化されること。
だから、ここに感じる心地良さも、安堵も錯覚。
受け入れ難いものだ。……そうでなくてはならない。
望んでも、求めてもいない。
作品名:Noli me tangere 作家名:加賀屋 藍(※撤退予定)