わがままなバーミリオン
狭かったがそれなりに片付けられた応接室のような場所に通されたあたりまでは、エルリック兄弟は特に何かを警戒してはいなかった。ただ、件の錬金術師について考えているだけでよかった。年齢はどのくらいなのか、専門は何なのか、金属や木材の腐食を食い止めるのはどういう理論なのか、そういったことをどうやって話そうかと、ただ単純にそれだけを考えていたのだ。性別についてだけは考えなかった。きっと線路の補修をするくらいだから、男に違いないので。職業婦人というもの自体がまだ多くもないのだし。
それはさておき、お茶を出したきり誰もやってこないことに、まず弟が疑問を持った。
兄弟を中に入れたときの反応からしたら、首に縄つけてでも錬金術師を引っ張ってきそうな勢いだったというのに、その後の展開が遅すぎる。
「兄さん、…」
ちょっと変じゃない?
そう尋ねようとして、アルフォンスは息を呑んだ。少しぬるくなって飲みやすくなったお茶を口に運んだとたん、エドワードがごろりとソファに転がってしまったからだ。カップは床に落ち、がちゃんと割れる。
「兄さん!」
慌てて立ち上がれば、エドワードの金色の目が弟を見た。
どうやら意識は一応あるらしい。口まで動かなくなっているらしいが。だが、意識があるならひとまずは安心だ。それに、視線の強さは体の自由を奪われてもなお健在で、そういうところが兄の本質を顕しているとアルフォンスは思う。とにもかくにも彼は膝をついて兄を抱え起こすが、その背後でばたん、とドアが開かれた。
「動くな!」
「…え?」
振り返るより早くアルフォンスにはライフルの銃口が突きつけられていた。
そして少年は遅ればせながら覚ることになったのだ。また、自分たちがトラブルに巻き込まれたらしい、ということに。
突破できない包囲でもなかったが、兄が気遣われるので、とりあえずアルフォンスはおとなしく捕まることにした。うまく中を偵察できれば状況も変わってくるかもしれない。そう思った部分もある。
元が駅施設であることを思えば無理もないが、監禁するのに適した場所などはない。
だがそれにしても、アルフォンスが入れられたのはなんということのない倉庫のような部屋で、…こういってはなんだが修羅場慣れしているアルフォンスは思った。この集団は、プロではない、と。
悲しいかな現在のアメストリスはそこまで治安がいいともいえず、あちこちを旅して回っている兄弟はその現実に、テロリストという実物まで込みで触れ合ってしまっているから、すぐにわかってしまうのだ。この駅を現在掌握しているのは、断言してもいい、プロの活動家ではない、ということに。
ではなにかといえばそこはよくわからない。兄を捕獲したのは、素人ゆえ国家権力に対して過剰に萎縮した結果のように思えなくもないのだが。
アルフォンスは、拍子抜けしてしまう程あっさりしている包囲に逆に頭を抱えたくなった。逃げるのはたやすいし、多分、鎮圧するのもそんなに大変ではないように思う。兄に盛られたのが何の薬物か、それだけが気がかりではあるが、おそらくこの程度の警備であれば、兄を連れ出し逃げ出すことも可能だろう。そうしたら病院へ連れて行けばいいだけの話だ。さきほどの様子を見る限りでは、意識がしっかりしていたから、すぐにもどうにかなる類のことではない、と思っていた。
だがしかし、何のために彼らがこんなことをするのかについて解決させなければ、とりあえずこの街から出る手段が徒歩しかなくなってしまう。それはいささか困る。ずっと兄を抱えて歩くわけにもいかないだろう。アルフォンスはかまわないが、あの兄が黙っておとなしく抱えられていてくれるわけがない。
「さて、どうしようねぇ」
あまり真剣に困ってはいない口調で呟いて、彼はかわいらしく首を傾げたのだった。
その頃、アルフォンスとは対照的に落ち着きをなくしていた人物がいた。
白い山脈探検隊の中止を余儀なくされるような事態に、その頃のロイは陥っていたのである。
「…また、またなのか…」
彼はいっそ悲壮なまでの表情でかみしめた。
続いて届いた声明文、その二通目には確かに、彼の子飼いの錬金術師の名前があった。ご丁寧に指紋まで押されていた。赤いそれに一瞬血判かと、切られたのかと思ったが、単純にインクだった。ほっとした。
いっそ今すぐにでも出向いて、一気に制圧したい気分になったロイである。だが勿論そんなことは許されない。立場としても、常識としても。第一、どんな大儀が立つというのだ。
しかし、彼は幸いにしてたいそう部下に恵まれていた。
「大佐、一時間後には出発できますが」
ノックに続いて入ってきた副官の普段通り冷静な様子に、思わずロイはぽかんとしてしまった。これは願望が見せる都合のいい夢だろうかと。しかし麗しの右腕殿は柳眉をひそめて咳払いを一つ、大佐、とまるで嗜めるように呼んだ。
「お気づきでないかもしれませんが、今朝の声明文が届いてからというものまるで落ち着きをなくされています」
「…そうかな」
何となく思い当たる節がないでもなく、ロイはばつが悪いような表情でそっぽを向いた。それに、中尉は澄ました顔で答える。
「上司のメンタルコントロールも部下の仕事ですから。大佐に遅滞なく業務を執り行っていただくためにはこのくらいの融通は利かせるべきかと存じまして」
「……」
大変に美しい微笑で尻をたたかれ、もはやぐずぐずする理由などどこにもなかった。
大儀などいくらでも用意できるのだ。国家錬金術師とは諸刃の剣であり、機密保持の観点から考えても、テロ組織に確保された場合奪還もしくは抹消するくらいの覚悟を求められるのだから。もっとも後者を選ぶつもりなど毛頭ないが。
移動の車の中で、ロイは静かに目を閉じた。
まさかそんな大規模なテロが起こっているとは思わない。エドワードがそれに巻き込まれて甚大な被害を受けているとも考えられない。あれがそんな大人しい玉であるものかと思うのだ。しかし、だからといって心配しないなどはやはりなかった。しっかりしているように思えてもやはり子供だから罠にかかって動けないでいるのかもしれないし、生意気に悪ぶっていっぱしの口をきくけれど案外情にもろいから、相手に同情して拘束されているのかも、あるいは手伝いをさせられているのかもしれない。考えたらきりがなかった。
ロイが知る限り、あれほどの才能を持つ錬金術師などそうそういない。あの年であれだけの壮絶な過去を持つ少年もきっと、いない。だけれども、ロイがこんなにもあっけなく、あの少年に頭を占められてしまうのは、そういった理屈によって説明できるものではけしてなかった。
猫のように気ままに、そして気高く振舞う、いつでも振り返ろうとしないその背中に、もう長いこと惹かれている。
ロイはぎゅっと拳を固めた。胸を満たすのは、どこかに甘さを孕んだ痛みだ。それはいつだって心のどこかを軋むように痛ませるのだけれど、同時にひどく甘美でもあって、だから、ロイはずっとその痛みを胸に秘めてこられたのだと思う。
作品名:わがままなバーミリオン 作家名:スサ