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カイトとマスターの日常小話

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説明書には『生体VOCALOID KAITOはアプリケーションのKAITOに人型アンドロイドとして身体を持たせたものです。アプリケーションと機能、内容は同じですが、学習し、成長し、自我を持って行動します。…調整はパソコンへの打ち込みでも可能ですが、高度な会話が可能な分、初心者でも手軽に歌わせることが出来ます。こちらのVOCALOID KAITOはプロトタイプとして、弊社が開発に力を入れている商品です。現在、実用化に向けての開発を進めております。そのプロジェクトの一環として、』

『あなたを被験者に選ばせていただきました。』

…と、続いていた。

「…何で、そんなのが俺んとこに来るんだよ…」
気が遠くなる。眩暈すら覚える。…って言うか、そんなものが俺の家に来ていいのか?…有名Pとかのところに送ってやった方がいいんじゃないのか?…色んなことを考えるが、家に来てしまったものは仕方がないと諦めるべきなのだろうか。…返品すべきか?そう思い、…溜息を吐くがその選択肢は俺の中にはない。
「…起動はどうするんだ?」
…返品なんて出来ない。俺はあの声なしには落ち着けないのだ。…mp3に落とした彼の歌声を毎日、飽きもせずにリピートしているのだから、重症だ。症状は今しばらく、改善しそうにない。それに、調整が簡単なら、ど素人な俺にも歌わせてやれるかも知れない。…このKAITOには悪いが、こんな俺のところに送られてきたのが不運だったと諦めてもらおう。
「…耳元で名前を呼ぶと、起動します。後は、KAITOがあなたをマスターと認識するために動きますので、焦らずお待ちください…。………キスとかじゃなくて良かった…」
眠りの姫さながらに眠るKAITOにおかしな妄想をしてしまった自分が恥ずかしい。…女なら問題ないんだろうけど、…道徳的にそれもどうなんだろうか…。洒落にもならない上に、薄ら寒い展開を避けられて良かった。三十路の男と見掛け二十歳前後の青年のキスシーンなんて…絵にもならないし、気持ち悪い。心底、ほっとして、説明書を閉じる。

早く、あの声を聴きたい。

 ご丁寧に雑音が入らないように耳を塞ぐ栓を外し、物音を立てないようにKAITOの傍ら、お姫様に口付ける王子様さながらに、手を付いて、耳元、口を寄せる。…絵面的にかなり、恥ずかしいぞ。コレは…まったく持って、柄じゃない。…が、終わらせないとカイトは目を覚まさない。うう、恥ずかしいことは早く、終わらせたい。

「…カイト…」

初めて、彼の名を口にする。…が、変化がない。…声が小さかったか?もう一回、呼んだほうがいいのか?…逡巡していると、睫毛が震えた。驚いて身体を起こす。KAITOの目蓋が震えて、紺青の瞳がぼんやり何度か瞬いて、俺を捉えた。胸の上、組まれていた腕がふわりと動き、俺の頬を撫で、顔を近づける。深みを帯びた紺青の虹彩に俺を映す。感情のない硝子玉のようなその目は微動すらしない。…ああ、人には見える…でも、確かに人ではない。動画で見たカイトと同じように、コイツは笑うのか、歌うことが出来るのだろうか?

「…カイト?」

困惑しながら、名前を呼ぶ。カイトの感情のなかった瞳がぱちぱちと瞬いて、嬉しそうに細められた。そのゆるやかな変化を目の当たりにし、俺は言葉を失った。カイトはそんな俺に気付いているのかいないのか…桜色の唇をもごもごと動かして、眉を寄せ、初めて口にする言葉が見つかったのか、にこりと微笑んだ。

「…ますたー、ハジメマシテ。…ボクハ…ぼーかろいど かいと…デス…」

初めて、たどたどしく紡がれる言葉に動画のような滑らかさはない。でも、間違いなくその唇から紡がれたのは俺の好きなあの声だ。

「はじめまして。カイト、これからよろしくな」

それに、花がほころぶようにカイトは微笑った。その顔が本当に嬉しそうで、幸せそうで、俺もそれに感化されて、幸せな気持ちになったのを覚えている。







最初の頃、カイトは本当に可愛かった。
従順で素直。
そう、プログラムされてるからというのもあるだろうが、何というか、幼い子どもみたいだ。子どもは無条件に親を慕う…それと、同じだ。…だとしたら、これはインプリンティング(動物心理的な刷り込み)だ。最初はそれをどうなのかと思ったが、カイトは見掛けに反して、常識は弁えているものの、やることなすこと子ども染みてて、…俺はすっかり父親的ポジションにいる。そして、カイトは思春期の青少年にありがちな反抗期もどき…と言うか、俺の言うことは馬鹿みたいに信じいたカイトも、今やすっかり所帯染みて、俺の言うことは半分疑ってかかるし、…何と言うか、数年前に他界した母親の如く口うるさくなってしまっていた。

「マスター、また、散らかしてる!何で、片付けないんですか!!」

図面を引くために資料を引っ張りだしたままだった。それを見たカイトが目くじらを立てる。黙ってれば、美形なのにこれでは形無しだ。今や、すっかり主夫ロイドだ。…こうなってしまったのは、俺の責任か。…やっぱり…。

「…なぁ、カイト」
「何ですか?」
ファイルを棚に戻したカイトは眉を寄せてファイルの背表紙を睨んでいる。並び方が気に入らないようだ。カイトは大雑把かと思えば意外に神経質だ。…その背中に問いかける。
「お前、俺んとこ、来て良かったと思ってるか?」
はっきり言って、カイトに歌ってもらっているのは既存曲ばかりで、俺が作ったオリジナルはひとつもない。その上作業用BGM扱い。おまけに、家事全般してもらっている。それを最初、カイトが不満にしていたのを知っている。職場に復帰してから、カイトに新しい歌を教えてもいない。夜遅くに帰ってくる俺を健気に待ってるカイトは、何と言うか、主人の帰りを待ちわびる犬のようだ。…カイトのことを思うなら、カイトを手放すべきなのだろう。カイトのマスターになりたい人間はごまんといるのだから俺じゃなくてもいいはずだ。
「良かったですよ。何、言ってるんですか」
カイトが俺を見やる。
「家事はやらせてるし」
「最初は見かねて、仕方なくでしたけど。洗濯も掃除もきれいになるから好きだし。…マスター、僕の作ったごはん、美味しいって言ってくれるでしょ。それが嬉しいからいいんです」
微笑う顔は最初に見せてくれた笑顔と変わらず、花が咲いたようだ。その笑顔を見るたびに、なけなしの良心というヤツが痛むのだ。
「…でも、歌も既存曲ばかりで、作業用BGM扱いだしな」
「既存曲でも何でも歌えるなら、何でもいいです。そりゃ、いつかは僕のために、マスターが歌を作ってくれたら嬉しいですけど。…作業用BGMでも、マスター、僕の歌、聴いてくれるでしょう?…好きなだけ歌わせてもらってるし、不満はないですよ」
カイトが言う。
「でも、他のマスターの方がお前に色んな歌を歌わせてくれるだろうし、大切にしてくれると思うぞ」