カイトとマスターの日常小話
カイト、お風呂に入る。
起動して、約一月…。
珍しく早く帰宅できた俺を満面の笑みで迎えたカイトの頭を撫でてやりながら、その感触に眉を寄せた。
「…触り心地が悪い…」
いつものさらさらとした感触はなく、何というかぺとぺとするような感じだ。そう言えば、髪が何か固まってる気がする。
「マスター?」
カイトは不思議そうに俺を見上げてきた。…そう言えば、コイツ、風呂入ってないな。…心なしか、生活臭と言うか、不快ではないが若干臭う。…って言うか、カイトを犬みたいに洗ってないというか…洗って大丈夫なのか?
「…お前、風呂とかって入れんの?」
「お風呂?」
首を傾けたカイトに俺はあの分厚いマニュアルを開くことにした。
マニュアルには風呂に入れても大丈夫と言うか、入るようにすることをお進めしますとあった。今まで中身は精密機械だと思っていたが、臓器や骨、体液、皮膚と身体を構成するものはほとんど人間と変わらない。だから、食事も出来るし、排泄もする…らしい。…しかし、前、カイト、俺に排泄はしないと言ってたが、…してるとこ見たことねぇな。アイスしか食ってなかったかからか?…うーん。取り合えず人間と同じように身体を清潔に保つことも必要とある。今まで、カイトが何も言わないので、放置していたが、これからは毎日、風呂に入るように躾けねば。
「マスター?」
マニュアルと睨めっこしていた俺にカイトが構えと背中に抱きついてきた。ふわりと何かが香る。
「…魚の煮付けの匂いがする」
何かはカイトの髪から臭う。食べ物の匂いだ。
「よく解りましたね。今日の夕飯はカレイの煮付けですよ」
にこーと笑うカイトは男前…と言うか美形の部類に入るだろうに、煮付けの匂いをさせていたのではその魅力も半減…って、それは俺の所為なのか…。
「先にご飯にしますか?」
カイトが訊いてくる。俺はマニュアルを閉じた。
「いや、風呂に入る。洗ってやるから、お前も入れ」
その言葉にカイトが固まった。
「…マスター、今、何て?」
「風呂に入る。洗ってやるから、お前も入れ」
「お風呂!?無理です!!嫌です!!壊れます!!」
カイトは凄い勢いで俺から離れ、後退った。
「無理じゃないし、嫌は訊かない。壊れない。マニュアルに書いてあったぞ」
「…っ、そんなの、解らないじゃないですかッ!! 嫌です!!」
何なんだ?この拒否っぷりは。
「嫌でも、入れ!!」
「嫌っ!」
俺とカイトは暫し睨み合う。…何で、そんなに風呂に入るのを嫌がるんだ。コイツは?
「…何が、嫌なんだ?」
「何がって……よく解らないけど、嫌なんです!!」
どうやら、水に対して潜在的恐怖でもあるみたいだが、そのままにしておくとカイトが汚れるだけ…汚れたヤツに抱きつかれるのは嫌だし、頭を撫でてやりたくもない。
「…解った。お前が風呂に入らないと言うなら、それでもいい」
俺がそう口を開くと、カイトは露骨にほっとした顔をした。
「でも、俺は不潔なのは嫌いだ。お前が風呂に入ってきれいになるまで今後、俺に抱きつくのは禁止。ちなみに頭も撫でてやらないから、そのつもりでいろ」
俺がそう告げると、カイトは目を見開き、打ちひしがれた顔になった。
「…っ、マスター、ひどいっ!!」
「酷くない。風呂に入ればいいだけの話だろうが。湯船に浸からなくてもいいから、身体ぐらい洗え」
カイトは涙目で俺を見上げていたが、俺が言葉を翻す気がないことを悟ると項垂れて溜息を吐いた。
「…入ります。…入りますよ…入ればいいんですよね…」
水への恐怖より、俺に抱きつくことと頭を撫でてもらうことの方がカイトの中では重要らしい。
「お利口さんだな。んじゃ、着替え持って、風呂場に来い」
「…あーい…」
頭を撫でてやるとカイトは恨めしそうな顔をして、しぶしぶと自分の部屋に着替えを取りに行った。
「ほら、潔くさっさっと脱げ」
「…ううっ」
カイトは小さく唸って、俺が買ってやったパーカーを脱ぐ。…チッ、コイツ、無駄にいい身体してんな。カイトの割れた腹筋にそう思う。
「マスター、脱ぎましたよ」
潔く真っ裸になったカイトの身体を見やり、つるつるぺったんじゃなかったのかと変な感心をしてしまった。付くもんは付いてるし、ささやかだが淡い繁みもある。無いのかと思ってた。…見慣れた男の身体だった。しかし、いつまでも見ていたい代物ではない。俺はカイトにタオルを渡した。
「それで、前、隠せ」
「前?」
タオルを受け取ったカイトが首を傾ける。…何で、こんな一般常識、インプットされてねぇんだよ。…と思うが、まあいい。
「腰に巻け」
「はい」
カイトは言われた通りにそうして、所在無げに俺を見上げて来た。
「先に入ってろ」
「…ふぁい」
カイトは恐る恐る、風呂場に入っていく。それを見送って、俺もシャツを脱ぐ。腰にタオルを巻いて、入ると、カイトは居所がないのか突っ立っていた。幸いなことにウチの風呂は男ふたりでも余裕がある広さなので、妙な圧迫感は感じない。
「突っ立ってないで、そこに座れ」
「…あい」
言葉がやや、未知への恐怖からか後退してるが大丈夫だろうか?…いや、ここは心を鬼にせねば!椅子に腰を下ろして、カイトは俺を不安そうに伺ってくる。
「そんなに不安そうな顔すんな。取り合えず、頭から洗うぞ。お湯掛けるから、怖いなら目を閉じてろ」
「っ、あい」
ぎゅうっと目を閉じたカイトに温度を調節したシャワーを驚かせないように、足元から濡らして、腕、肩、首筋、頭の順に掛ける。足元に掛けた瞬間、びくりと身を竦ませたので、肩を叩いて、大丈夫だと言ってやると、カイトは強張りを解いた。
「目を開けるなよ。シャンプーが目に染みると困るからな」
「あい」
一層、ぎゅうっと目を閉じたカイトの髪に手のひらに落としたシャンプーを馴染ませて、洗う。…汚れているのか、泡が立たない。…表面の汚れを落とすだけにし、流す。それに終わったのかとカイトが目を開き、ひゃあっと情けない声を上げた。
「馬鹿。ほら、ちょっと顔濯げ」
「ふぇっ」
カイトの顔にシャワーを傾ける。カイトは泣きそうな顔で俺を見上げて来た。
「さっさと目、閉じろ。また、染みるぞ」
「ううっ、ますたーのきちくぅ…」
誰が鬼畜だ。この野郎。…って言うか、そんな言葉、どこで覚えてきやがった。後で、聞かねば。そう思いながら、二回目のシャンプーを始める。今度はちゃんと泡立ってきた。蒼い髪を梳いて、頭皮をマッサージするように洗う。気持ちがいいのか、カイトの身体が弛緩してきた。
「痒いところはないか?」
「ないれふ…ますたぁ、きもち、いい…」
「そうか。…そろそろ、いいか。流すぞ」
「…ふぁーい」
髪を濯いで、泡を落とす。その髪に妹が置いていったと思われるコンディショナーを取る。…二年くらい使ってないが、…まあ消費期限とかないから大丈夫だろ。手のひらに馴染ませて、カイトの髪に絡ませる。…って言うか、自分ですらここまで気を使わないのに、俺はどこまでこのボーカロイドを大事に思っているんだろうと思うと溜息が出る。
「カイト」
「あい」
「目を開けて大丈夫だから、そこの青いタオル取って」
「これでふか?」
作品名:カイトとマスターの日常小話 作家名:冬故