カイトとマスターの日常小話
催涙雨
薄曇の空から、ぽつりと滴が落ち、ガラス窓を流れ落ちていく。その僅かな音にマスターは図面を引く手を止め、顔を上げて窓の外を見やった。
「今日は七夕だって言うのに、催涙雨か」
ぽつりと呟かれた耳慣れない言葉。
「たなばた?さいるいう?」
聞き返すように訊ねると、マスターは休憩にするかと腰を上げた。
アイスティーのグラスを二つ。片方のグラスにはたっぷりとシロップとミルクが溶けている。それを僕に差し出して、マスターはソファに腰を下ろした。
「…で、マスター、タナバタって何なんですか?」
甘いそれをこくりと飲んで、先程、覚えた言葉を口にする。
「七夕って言うのは五節句のうちのひとつだな」
「五節句?」
「1月7日の七草、粥作ってやっただろう。それと、3月3日、桃の節句…まあ、雛祭りっていうな。生憎、家には女の子はいないから人形飾ったりはしなかったけど。5月5日、菖蒲の節句。鯉幟がいっぱい泳いでただろ?あれだ」
「あれ、節句だったんですか。なんでお魚飾ってんだろうって思ってました」
「中国の昔話にな、黄河の急流にある竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうと試みたが鯉のみが登り切り、竜に成ることができたって話があるんだよ。鯉幟はその話にあやかって子どもの立身出世と子が立派に健やかに育ちますようにって、親が願いをかけてるんだよ」
「へぇ。じゃあ、マスターが子どものとき、マスターのお父さんはこいのぼり飾ってくれたんですか?」
「したぞ。柏餅食ったりしたな。それが楽しみだったな」
「柏餅、美味しかったです」
鯉幟は飾らなかったけれど、五月晴れの縁側でマスターと買って来た柏餅を食べたのを思い出す。
「あ、でも何で、菖蒲の節句って言うんですか?」
「菖蒲の葉先が剣先に似てるだろ。邪気を祓うってされてきたんだよ。菖蒲は尚武(武道・武勇を重んじること)にも繋がるって語呂合わせらしいけどな。風呂に入れてやっただろ」
「…あの葉っぱが菖蒲だったんですか。何だろうって思ってました」
「今じゃ、なかなか手に入らないんだぞ。隣のおばちゃんが分けてくれたんだけどな。で、七夕だが、七夕は七月七日の夕方って意味。竹に紙飾りを飾り、短冊に願い事を書いたりする。元はお盆の行事の一環で終われば、川に飾った竹を流していたみたいだけどな。昔はよく家々で飾ったりしたんだが、今はあまり見ないな。竹を手に入れられないしな。俺が子どもの頃は七夕が近くなると竹売りが来たりしてたんだけどな」
マスターはちょっと昔を懐かしむような遠い目をした。
「…それで、七夕にはラブロマンスがあってな」
「ラブロマンス?」
マスターの口からまさか、そんな言葉が出てくるとは。そんなものから程遠いって思ってたのに。
「…何だよ?その意外って、顔は」
僕はそんなに意外という顔をしているのか。マスターは眉間に皺を寄せ、僕を睨んだ。
「いや、ロマンスのカケラもないマスターから、ラブロマンスって言葉が出てきたのが不思議で」
「…お前、何気に失礼だな。俺にだってラブロマンスのひとつやふたつ、昔はあったんだよ!」
「え、そうなんですか?ぜひ、聞かせてください」
「…そ、それは、また今度な」
「そんなこと言って本当はないんでしょう?」
意地の悪い顔はマスターの専売特許だが僕にだって出来るのだ。する機会が滅多にないけど。
「…カイト、お前、今日、アイス抜きな」
その顔に、こめかみをひくりとさせて最高にいい笑顔を浮かべたマスターが言う。…怖い。
「それだけはイヤです!!それより、七夕の話してください。さいるいうって何なんですか?」
こう言うときは無理矢理話題を変えるに限る。マスターがいつもは僕に使う常套手段だ。
「…催涙雨ってのは、七夕に降る雨のことだ。牽牛と織姫の涙だと言われてる」
マスターは何か言いたげに僕を睨んだが、にっこり笑って僕が続きを促すと小さく息を吐いた。
織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘だった。牽牛もまた働き者であり、天帝は二人を引き合わせ、結婚させることにした。ふたりはめでたく夫婦となったが、今まで働くことしかしてこなかったふたりには夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、牽牛は牛を追わなくなった。好きなひとと一緒にいるんだ。ずっと四六時中一緒にいたいよな。でも、いちゃいちゃの度が過ぎて、天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離した訳だ。仲を引き裂かれ、嘆き涙を流すふたりを哀れんだ天帝は年に1度、7月7日だけ逢うことを許した。そして、その日がやってくると天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けて、織姫は対岸の牽牛に逢い一夜を過ごすことが出来た。しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず牽牛も彼女に会うことができない。だから、その日に降る雨は織姫と牽牛が逢うことが出来ずに悲しみ流す涙、催涙雨といわれている。
「切ないくらいに遠距離恋愛ですね」
「だろ。対岸に姿が見えるのにそこにいくことは出来ない、声をきくことも体温すら感じられないんだから切ないよな。逢えるのは年に一度だけ。その日に雨が降れば逢うことも出来ないんだからな」
「逢えることを許された日に、雨が降って、逢えなくなったら泣きたくなりますよね。年に一度しか逢えないのに」
「だよな。…って言うか、この話をさ、子どもの頃、祖母さんから聞いてさ、子どものときは気にも留めなかったけど大人になってからさ、何て理不尽な話だって思ったよ」
「理不尽?」
「一緒に居たいだろ。好きだったら。…そりゃ、仕事を放り出したのは駄目だけどさ。引き離すことはなかったんじゃないかってな」
「…ですね。好きなら一緒にいたいって思いますよね」
ふたりの気持ちが解るような気がする。…マスターと引き離されて、逢えるのは年に一度だけ。その日に雨が降ったら、マスターに逢えないってことになったら、僕は泣かずにはいられないと思う。
僕は窓ガラスを濡らす外を見やる。
「…雨、早く止むといいですね」
「そうだな。上がったら、散歩にでも行くか」
空になったグラスを手にマスターが席を立つ。
晴れるといいな。
そう思いながら、僕は氷の溶けたアイスティーを啜った。
オワリ
作品名:カイトとマスターの日常小話 作家名:冬故