カイトとマスターの日常小話
マスターと僕とプリン。
季節の変わり目にマスターはとても弱い。
ついこの間まで熱帯夜続きだったのが、日中は暑いものの朝夕涼しくなり始めた途端、マスターは風邪を引いた。最初はくしゃみ、鼻水…鼻をかんだ後のティッシュは既にゴミ箱から溢れ、マスターの鼻は時期はずれのクリスマスのトナカイみたいに真っ赤だ。
「…寝てた方がいいんじゃないですか？」
「…あー、だいじょーぶだ。くしゃみとはなみずだけだから、しごとする」
ぶしっと語尾に可愛くないくしゃみを付けて、マスターは仕事部屋へ。大丈夫かなと思いつつも、僕は洗濯物を干すために外に出る。外は少しだけ秋の気配がするものの夏の凶暴な日差しの名残か、じっとりと汗が滲む。
「…水分摂った方がいいよね。冷たいものより温かい飲み物の方がいいかな。…お昼は僕が消化に良さそうなものを作ろう」
朝と状態と変わらないようだったら薬を飲ませて、無理矢理寝かせつけよう。そう決意して、洗濯物を干し終え、いつものように仕事部屋へ。そこで、心臓に悪いものを見た。椅子から滑り落ちたらしいマスターが床に転がり、荒い息を吐いていた。
「マスター！！」
駆け寄り、抱き起こして額に落ちる前髪を掻き上げる。触れた頬も額も酷く熱い。日頃はなりを潜めている馬鹿力を発揮しマスターの決して軽くはない身体を抱き上げ、ベッドに運ぶ。触れた身体越しにもマスターの身体はひどく熱い。
「…マスター、マスター！」
ベッドに横たえ、呼びかけるとマスターは億劫そうに目を開いた。
「…あれ？…かいとー？…ここどこだ？」
きょろりと部屋を見回すマスターに溜息を吐く。気を失っていたらしい。そんな状態でなんで仕事をしようなんて思うんですか？僕には理解できません。
「あれ？、じゃないですよ。心臓に悪いことをしないでください。寿命が縮むじゃないですか」
「…おまえ、じゅみょうとかあんのか？」
熱で潤んだ焦点の合わない目で僕を見つめ、マスターは不思議そうな顔をしてそう言った。
「擬似心臓にストレスで負荷が掛かれば、色々と影響が出るんですよ」
「…わりい」
「心配かけないでくださいよ。もう。…体温計取って来ますから、そこを動かないでくださいね」
睨んで念を押すと、マスターは頷く代わりに目を閉じた。
「…39度7分…病院に行きましょう」
「…ヤだ」
「ヤだじゃないです。今流行りのインフルエンザかもしれないじゃないですか」
「…家から一歩も外出てねぇのにかかるかよ…」
熱で意識が朦朧としているハズなのに何と言うか嫌なことだけは確り、嫌だと答えてくるあたりマスターらしい。でも、熱が高いけれど意識は確りしているらしく、喋る言葉は掠れているものの明瞭でほっとする。
「…っーか、そんなに熱あるのか、熱いことは熱いけど頭冴えてるけどな」
「…一時的にですよ。病院行くのが嫌なら大人しくしててください。夕方になっても下がらなかったら、担ぎ上げてでも無理矢理連れて行きますからね？」
でもそれは熱が出て、テンションが上がっているだけだ。無理をすれば悪化するかもしれない。今にもベッドから出そうなマスターににっこり笑って、体温計をしまいつつ釘を刺した僕にマスターは不承不承頷いた。それにしても、マスターの病院嫌いは筋金入りだ。病院に何か嫌な思い出でもあるんだろうか？額に掻いた汗をタオルで拭って、冷えピタを張る。それにマスターは小さく息を吐くと、目を閉じ、やがて鼻をぐずぐずさせながら眠ってしまった。
（…何か、小さい子どもみたい）
そう思いながら、枕元、座り込む。とても静かで、マスターの立てる寝息と外で夏を急ぐ蜩の鳴く声が遠くに聴こえる。時折、家の前を走る車の音さえ、遠くに聴こえる。
「………」
この世界から、自分だけが切り離されてしまったような錯覚を覚える。耳に入ってくる音、全ての音が遠い。だから僕はマスターがこの世界からいなくなってしまい、僕一人だけになってしまったらと…そんなことを考えてしまう。
（…僕、ひとりだけ…）
多分、今みたいに全ての音が遠くに感じて、最後には聴こえなくなるのだろうと思う。それでも、鮮明にはっきりとマスターが僕を呼ぶ声だけを繰り返し繰り返し、飽きるほど再生して、壊れるまでその声を乞い慕うのだろう。
「…もう。…こんな馬鹿みたいなこと考えるの、マスターの所為ですよ？」
少しだけ呼吸が楽になったような顔をしたマスターの頬を突く。枕元の目覚まし時計を見やると、正午が近い。マスターが目が覚めたときに直ぐに何か食べられるように準備しようか。
（…お粥にしよう。卵を入れて。…あ、スポーツドリンク買いに行こうか。汗、掻いてるし喉乾いてるよね。プリンも買っておこうか…）
日常に頭を切り替えると、瞬く間にそこに溢れた音が耳に入ってくる。その音に僕は安堵を覚えた。
「……どうですか？具合は…」
昼も大分過ぎて、マスターは目を開けた。顔色は大分良くなっていた。
「…あー、のどかわいた」
「ちょっと、待っててください。…あ、何か食べれそうですか？」
「…んー。たぶん」
「…多分ってなんですか。お粥作りましたからそれでいいすか？」
それにマスターは眉間に皺を寄せた。
「…プリン」
「え？」
「プリンがいい。それじゃないと食わない」
ぷいと顔を背けたマスターに苦笑する。前に風邪引いたときにもプリンって言ってたけ。
「買ってきてますよ。マスター、本当にプリン好きですよね」
しみじみそう言うと、マスターに睨まれた。
「…お前のアイス程じゃねぇよ」
「アイス、冷たくて美味しいですよ。マスターの分も買ってきましたから、元気になったら一緒に食べましょうね」
「…おう」
頷いたマスターを何故か撫でてあげたくなって、汗に濡れた額に張り付く髪を梳いて、そのまま髪を梳く。いつもはマスターが僕にするそれ。マスターは目を細めた。
「…弱ってるときにさ」
「はい」
「…自分を心配してくれるやつが身近にいるとやっぱり、ほっとするな」
…それとお前の手、冷たくて気持ちいい…。語尾に小さく付け加えて、マスターは目を閉じる。
「…プリン、取ってきますね」
「…おう」
いつだって、マスターは僕の欲しいものをいとも簡単に与えてくれる。
「…ああもう。大好きです」
閉めたドアに凭れて、そう言ってみる。こんなに幸せなボーカロイドはこの世界のどこを探しても僕だけだ。
翌日、熱の下がったマスターは昨日の具合の悪さなど微塵も見せず、ケロリとした顔で起きてきた。
「起きて大丈夫なんですが？」
「ああ。俺の場合、熱が下がれば治ったってことだから」
「そんないい加減な」
「前もそうだっただろ？…で、朝飯、何？」
鍋を覗き込んできたマスターはもう通常運転だ。
「マスターはお粥です」
「えー？普通の白ご飯がいい」
「昨日、熱出して寝てた人が何、言ってるんですか。卵入れてあげますから、食べてください」
不満そうな顔をするマスターにぴしゃりと言う。
「…むう。可愛くねぇな」
「可愛くなくて、結構。それより、お風呂沸かしときましたから、先にお風呂に入ってきてください。汗臭いです」
作品名：カイトとマスターの日常小話 作家名：冬故