カイトとマスターの日常小話
ぴったりする。
「…お早う」
起きた来て覗くリビングはやけに冷え冷えとして、返事のないキッチンに立って、薬缶を火にかける。冷蔵庫を開けて、…何も作る気も食べる気もしなくて、閉じる。カップにコーヒーの粉と湯を注いで、ひとりテーブルに付いて、スプーンを掻きまわす。
かちゃかちゃとカップに当たるスプーンの音がやたら大きく聴こえて、こんなにこの家は静かだったのかと思う。
カイトが来るまでは当たり前だった日常。朝飯食う暇があったら少しでも寝てたくて、朝はコーヒーだけを空っぽの胃に流し込んで会社に行って、ひとりきりの部屋に帰るのが嫌で残業ばっかりしてた。それが、変わったなぁ。俺も、この家も、カイトが来て。
「…早く、戻って来いよ。馬鹿カイト…」
カイトはここにはいなかった。
カイトの声が掠れてるなと思ってはいた。
最近、乾燥し始めたからだろうと気にしてはいなかった。そろそろ加湿器を出してやるかと思った矢先、突然、カイトの声が出なくなったのだ。
口を開け、声帯を振るわせようとするカイトの唇から漏れたのは息だけ。カイトが眉を寄せ、もう一度口を開くがそこから音は出てこない。
「どうした?」
一向に歌いださないカイトに作業の手を止めれば、困ったように眉を寄せ、ぱくぱくと口を開いた。
「?」
「………」
「カイト」
「………」
「…声が出ないのか?」
それにカイトが頷き、不安そうな顔をする。カイトのこんな顔を見るのは始めてだ。
「喉が痛いのか?」
それにふるふると首を振る。
「熱があるとか?」
カイトの額に触れるが熱くはない。一時的なものなのか、それともどこか知らないうちに痛めたのか…。そんな前触れはなかったと思うし、カイトと俺では身体の造りが同じようで異なるのだから、俺の具合の悪いときの症状が、カイトの症状に当てはまるとは限らない。
「…サポートセンターに電話してみるか」
他に思いつくこともなくて、ぎゅうっとセーターの裾を掴んできたカイトの肩を心配するなと叩いてやりながら、一番不安に思っていたのは俺かもしれない。…最悪な可能性なんて考えたくない。でも、それは突然やってくる。
「大丈夫、大丈夫だ」
カイトに言いながら、本当は自分にそう言い聞かせていた。
マスター、ちゃんとご飯食べたかな?…僕がいないと直ぐにご飯、抜いちゃうひとだからなぁ。
戻ることは二度とないと思っていたラボに戻って、二日目。
マスターとこんなに長い時間離れるのは初めてだ。そして、声が突然、出なくなって三日目。…喉の炎症が原因だと解って、今は処方された薬を飲んで、喉の炎症を抑えている。僕はアンドロイドだけど、身体はほぼ人間と変わらない臓器や血、筋肉を持っている。だから、稀に人の罹る風邪だとかそんなものに感染してしまうことがあるらしい。僕は自覚がないまま、風邪を引き、喉を酷使して声が出なくなってしまっただろうって、僕を診てくれたドクターが言った。それから僕はラボの一室、安静にしてるように言われ、強制的にスリープモードに切り替えられて、寝ていたのだけど、目が覚めてしまった。何をするでもなく、窓の外をぼんやりと見ることしかすることがない。歌いたくても声は出ないし、それなら、こんなにいい天気なんだから、マスターのベッドのシーツや枕カバーを洗濯して、ついでに布団も干せば気持ちよく、夜は寝られるのにな…と取りとめのないことを考える。…冷蔵庫の中の牛乳、賞味期限近かったからシチューに使っちゃおうと思ってたのに、作れなかったから切れちゃったかもしれない。マスターが気が付いて、切れる前に飲んでくれてればいいんだけどな。
(…帰りたいな…)
マスターの家に行くことになる前は、本来の機能である歌うことをわすれない為だけに歌って、それ以外は寝るか、こうやってぼうっと空を眺めることばかりしてた。それを不満に思うことも、悲しいとも思わなかった。でも、今は違う。
(…寂しい…)
いつもそばにいるマスターがいない。…マスターが会社に勤めてる頃、感じてた寂しさとは違う。マスターは絶対に帰って来るんだと安心感があったから耐えられてた寂しさとは、この寂しさは違う。何かが足りない…そんな、寂しさだ。
(…早く、帰りたい…)
喉の炎症が落ち着くまではここを出られない。マスターの元へ帰れない。…ああ、本当に僕はマスターがいないと駄目だ。…弱くなっていく心にそう思った。
「…やる気しない…」
製図台に向ってみるものの、いつもはすらすらと滑る鉛筆の先はぴたりととも動かない。諦めて投げ出して、口にした冷めたコーヒーは苦く後味が悪い。
「…何してるかな。アイツは」
サポートセンターに連絡して、ラボでメンテナンスを受けることになったカイトの目は酷く不安そうで、ゆらゆらと揺れていた。小さな子どものように俺のセーターの裾を掴んで離さない。声が出ないと言う事は、ボーカロイドにとって死活問題だ。それを思うと自分のことのように辛く思えた。
眉を寄せた俺のセーターの裾をくいっと引っ張られて、顔を上げる。立ち上がったカイトがメモ帳とペンを手に持って戻ってきた。白い紙面に不器用に握られたペン先がぎこちなく動いた。
しんぱいかけて ごめんなさい
くいっと袖を引っ張られて覗き込んだ紙面には、お世辞にもきれいとは言えないひらがなが綴られていた。その言葉に俺は何と言っていいのか解らなくて、開きかけた口を閉じる。不調に気付いてやれなかった俺が悪い。言葉が出てこないのをカイトの頭を撫でることで誤魔化す。
「謝るな。俺の方こそ、悪かった。お前の声が掠れてるの、気が付いてたのに何もしてやれなくて」
昔、苦い思いをしたはずなのに、どうして俺は気付いてやれなかったんだろう。そう思うと、遣る瀬無さばかりが胸を重くする。
ますたーはわるくないです
くいっとまた袖を引っ張られて、俯いた顔を上げる。カイトが笑った。
ぼく のど はやくなおして うたえるようになりますね
「…ああ。カイト…もし、もしも、声が戻らなかったとしても、お前は俺の家族だからな」
心配かけまいと辛いときには、いつも大丈夫だと微笑んでいた母の顔に重なる。大丈夫じゃないだろう、本当は。自分が一番辛いくせにお前はいつも笑うんだ。
はい ますたー
その言葉に安心したようにカイトは笑って、迎えに来た職員と一緒にここから遠く離れたラボへと連れられて行った。
「…ああ、もう。早く、帰って来いよ…」
昔は耐えられた寂しさに情けないとは思うが、耐えられそうになかった。
「…あーああー」
炎症が治まり、ようやく声が僕に戻った。退院してもいいとドクターからの許可が下りた。一週間ぶりにマスターに会えるのだと思うと、一週間の間、考えてた最悪なこととか憂鬱なことが吹き飛んでいく。
「嬉しそうだね。KAITO」
嬉々として帰り支度をしている最中、開け放したドアから声を掛けられ、振り返る。そこにはマスターが見つかるまでの間、マスター代わりだった主任が立っていた。
作品名:カイトとマスターの日常小話 作家名:冬故