アイタイ
「カントクー、オレそろそろ帰ります」
「今日はありがとう。みんないい刺激になったわ。花井君もお疲れ様」
当然待ち合わせていたのだろうという百枝の勘違いに、花井がきょとんと見返す。
「お、花井も来いよ。今日エンカイ!」
「あぁ? いきなりじゃ迷惑だろうが。それに今日着替え持ってきてねぇんだ」
練習着で走り回った田島のように泥だらけとはいかないまでも、汗とホコリでどろどろになっている。
「なんか貸してやるからこいよ」
返事を待たずに花井の袖を引っ張ると、後輩たちに大声で手を振った。
「お前らがんばれよ!」
「監督、すみません。お先に失礼します―――こら、田島っ、引っ張るな。伸びる」
金網の向こうは、すぐに田島家の畑だ。舗装されていない砂利道を抜けると、すぐに田島家が見える。この辺りの地主の本家なだけあって広い玄関なのだが、靴で溢れかえっていた。
「おい、本当にいいのか?」
遠慮がちに靴を脱いだ花井に、風呂そっちと指差す。
「兄ちゃん、服貸して〜」
全く話を聞く気がない田島に、ため息をついた花井はお邪魔しますと上がった。
マンション暮らしの花井家と違って、風呂も広い。ゆっくり浸かりたい衝動をこらえながら、花井は熱い湯を被った。
花井が手早く汗を流している中、なんの遠慮もなく田島も入っていく。
「着替え置いといたから」
「おぅ」
「上がったら、とりあえずオレの部屋で待ってて」
「けっこう似合うじゃん」
頭をタオルで拭きながら戻った田島は、着替えた花井の姿を見下ろした。
濃紺のかすり模様の甚平に、坊主頭が様になっている。
少し丈が足らない気もするが、いつものカジュアルなスタイルとは違う、男の色気がある。
「おう、わりぃな。色々借りちまって」
「お前の着れそうなの、それしか無くてさ。兄貴のだけど―――あ、それ懐かしいだろ」
練習着を引っ張り出した時に、花井から貰ったバッティンググローブも出したままになっていた。
さすがの田島とて、プロ入りしてから全て順風満帆だったわけではない。
疲れて実家に戻った時、これで瞑想を思い出して、気持ちを高めて来たのだ。
「けっこう花井の手形が残ったままなのな」
合皮の部分には、関節のしわや、手相に似た筋がくっきり付いている。
ひょこんと頭に乗せると、田島は頭を指差してニカっと笑った。
「ほらほら、花井にほめられてる気分」
「アホか」
花井は少し顔を赤らめて手袋を取り上げると、田島の頭をグリグリとかき回す。
「よく打った。すごいぞ」
田島の胸が弾んだ。
このちょっと情けない顔も、好きだったんだよなぁ。
「あっ、メール」
大きな手が気持ち良くて、されるままになっていたが、ふと送られていないというメールのことを思い出した。
「花井、メールぅ」
覚えてたかと、花井が舌打ちする。
「揺するな。送るから」
長い指が乳白色のスラリとした携帯を開いた。メール画面を立ち上げるのを、我慢出来ずに覗き込んだ。
「見んな」
田島を避けて携帯を遠ざけられたが、一瞬あれば十分だった。
「ナニ、その未送信十件って」
「だから見んな」
「それ、オレ宛て?」
顔を赤らめて目を逸らしたら、肯定したのと同じだ。
「花井…」
携帯を奪い取ろうと右肩を引いた時、長姉の声が響いた。
「悠〜っ、おじさんたち待ってるよ」
「はぁいっ」
体に刻み込まれた恐怖で、田島の背中がピシッとなる。
花井も何度か見たことはあるが、田島が女監督に対して最初から従順だったのが、なんとなく分かる人だった。
「ほら、行こうぜ」
田島を促すように立ち上がりかけた花井の頭に、腹いせにとタオルを巻きつける。
「甚平には、やっぱタオルっしょ」
「お前…これ濡れてるじゃないか…」
眉間にしわを寄せながらも、花井はタオルを被りなおした。
「似合う、似合う」
適当な事を言って仏間を開くと、半ば出来上がった田島一族がわらわらと寄ってきた。
広い和室を埋めた三十人ばかりの人に、花井がたじろいだようだった。
あちこちから、悠、悠と掛けられる声に応えながら、花井を真ん中へと誘う。
「これ、西浦の主将の花井ーっ」
自慢げに田島が紹介すると、おーっと歓声が上がった。酔っ払いの集団なので、何でも楽しいのだろう。
事あるごとに行われる宴会で、酔っ払いのあしらいにもなれた田島は、さり気なく花井をかばって上座へと向かった。
「ひいじいっ」
田島は五人兄弟の末っ子なので、曽祖父と呼ばれた人は少なくとも百歳に近いはずだ。しかし、長年の農作業で鍛えただけあって、かくしゃくとした老人だった。
目を細めてひ孫の頭を撫でる顔には、誇らしげな輝きがあった。
すぐ傍の大きな仏壇には、もらったお祝いと共に、少し薄汚れた球が供えられている。帰宅してすぐ、曽祖父の手によって置かれたのだ。
同じ地区でも、旧家の大家族と核家族では、生活習慣もまるで違う。本家筋ではない花井の家では見られない光景に、少し戸惑っているようだった。
「楽にしてなよ。もうみんな酔っ払ってて、わかってねーから」
「悠にかんぱーい」
言うそばから、酔っ払った叔父にぐいぐいと引っ張られる。いつもなら皆の中に行くのだが、今日は花井の傍を離れないでいた。
曽祖父と話している花井の皿に、勝手に料理を取っているとひときわ大きな声が上がった。
誰かが先日の試合のDVDをつけたらしい。すっかり出来上がった人達が、オープニングで拍手する。
「あ、これ見てないや」
「え、そうなのか?」
花井が少しうわずった声を出した。
「資料用のをミーティングで見たんだよ」
反省用の資料ビデオと違って、観客席の熱気も伝わってくるそれを、また別の感慨で見る。横を見ると花井は少し落ち着かなさげだった。
「どした?」
腰を浮かしかけた花井を、思わず引き止める。
「…あぁ、俺も手伝って来ようかなって…」
「これからオレのいいトコロなんだから、ちゃんと見ろよ」
膨れた田島に、花井がはぁと頭を垂らした。
見たくないのかなあと、柄にもなくしょんぼりする。
途中の打席も田島が出る度に宴席が盛り上がるが、花井との会話は途切れたまま八回の表に来た。
「…サード、田島」
「悠来たぁっ」
アナウンスの声をかき消す拍手と歓声が上がる。
テレビの観客の応援歌に合わせて歌いだす親戚たちのせいで、解説の声はほとんど聞こえない。
しかし、投手が二球目を振りかぶった時、一同がいっせいに静まった。
甲高い打撃音と白球と、それを受け止めた観客席までカメラが追いかけていく。
その瞬間を、田島の目は逃さなかった。
再び湧き上がる親戚たちの声も、もう耳に入らない。
「ああああっ」
横で花井が大きいため息をついた。
小さいながらも鮮明な映像が、観客の青年が長い腕を生かして球を受けとめた瞬間を映していた。
諦められなかったのか、勢いが付いていたのか、人の波に押し潰されそうになる。しかし横から出た沢山の手も、剛腕ライトのグローブから球を奪えずに終わったようだ。