市営住宅の真ん中の入り口の4階の右
雨の日
5時を回るころに突如降りだした雨は、勢いだけは夕立だけれど、一向に止む気配を見せない。ローとウソップはそれぞれ家族と約束があるとかで雨が降り始める前にとっとと帰って行ったので、薄暗くなったロロノア家にはルフィだけがぽつんと残された。
「エースに連絡したら、迎えに来るってよ」
廊下から響いたゾロの母ちゃんの声に、ルフィはやった、と嬉しそうに笑った。年の離れた兄のことをルフィは随分慕っていて、こうして人前に兄が出てくるのが嬉しくて仕方がないらしい。現在大学で研究をしているとかいうルフィの兄貴は時々小学校まで弟の忘れ物を届けに来るのだけれど、それが結構頻繁なものだから、実はこいつわざと忘れているんじゃないかと時々ゾロは疑ったりする。
「父ちゃん、もう帰って来るんだろ?」
「あー……そうだな、そろそろだな」
ついにこいつ、うちの奴のシフトまで把握しやがったよ、と母ちゃんが台所から呆れたように声を上げた。ゾロの父ちゃんは警察官でしかも交番詰めだから、シフトはかなり複雑だ。それを覚えられてどうして掛け算が覚えられないのだろうかと、ゾロは自分のことを棚に上げてそんなことを思った。
「ゾロの父ちゃんとエース、どっちが早いかな」
「さあな」
きっとエースだ、とルフィは笑った。たいした理由はないに決まっている。
2人きりでのゲームにもそろそろ飽きてきて、テレビに映っているのは土曜夕方のアニメ番組だ。再放送のこの番組を、小学4年生のゾロですら既に何度か見たことがあるような気がする。確かそろそろ主人公が覚醒して超強くなるはずだ。
オープニングテーマがジャンジャンと流れる後ろでは、雨がますます激しさをましていた。重たい水の粒の音は、それ以外の鳥の鳴き声だとか車の音だとかを全部ひっくるめて奪い去っていく。雨の日というのは、雨音だけはざわついているくせに、妙に静かだ。
「おれもこの必殺技出せるようになるかな」
「なるかよ」
「やってみなきゃわかんねーだろー」
アホ、と言いながらゾロは笑った。タイミング良くチビナスもキャッキャ言って、ルフィはむきになって必殺技の構えをした。
「いくぞ、おれはやるぞっ」
そのときドアの開く音がして、全員が玄関の方を振り返った。エースだ、とルフィは呟いたけれど、聞こえたのは「ただいま」という低い声だ。
「……外したな」
ニヤ、とゾロが笑うと、ルフィは床に寝転がって手足をバタバタさせた。変な奴。
台所から母ちゃんが、「まずは風呂!」と叫んだ。
父ちゃんが玄関で濡れた服をポンポン脱ぎ捨てていると、むっつりと不機嫌そうな顔をした母ちゃんが顔を覗かせ、いきなりバスタオルを投げつけた。もっとも、父ちゃんの前ではだいたい母ちゃんはこんな顔をしている。
「ちゃんと拭いてから上がって、風呂だからな」
「わかってるっての」
そんなことを言いながらも夫が身体を拭き終えるのをじっと待っているあたりは、律儀だけれど。もっとも、腕組みをして時折舌打ちをしながらだ。
「なんでエースじゃねーんだよー」
「何言ってんだあいつは」
ずぶ濡れで帰ってくるなり母ちゃんに邪険にされ、更に息子の友人にブウブウ言われ、父ちゃんは憮然とした。これでも一家の大黒柱で、二児の父親で、しかも公務員である。
「ったく、後で覚えてろよ」
「あっ……と、え、なんかスイマセン」
タイミングが良いのか悪いのか、父ちゃんが呟いた途端にドアを開けたエースに頭を下げられて、何故か母ちゃんの方が真っ赤になった。
*
「どうせ食ってくんだろ」
換気扇の下で煙草をふかしながら母ちゃんが言えば、へへ、とエースが笑った。どうやら母ちゃんも聞かずしてわきまえていたようで、コンロの大鍋はグラグラと音を立て、台所兼食堂の隅々にまでタマネギやニンジンの煮えるおなじみの匂いが漂っている。
「カレー?」
「ま、そうだな」
エースが食卓に着くと、母ちゃんは無言で豆と昆布を煮た奴をテーブルに置いた。
「ども」
「全部は食うなよ。うちの奴のつまみだ」
そう言って差し出された箸は、大きめの茶色で端だけ赤く塗られている。だいたいエースがこの家に来たときはこの箸を出されるから、もしかするとこれは自分専用なのだろうか、とふとエースは思った。なんだかこそばゆいような気持ちだ。
「勉強ちゃんとしてんのか?」
「まあ、ぼちぼちっすよ」
「暇があったらうちのにも教えてやってくれよ。あと弟の方もなんとかしろ」
「ハハ」
口に放り込んだ豆はじんわりと甘く、ほのかに昆布の香りが鼻の奥にまで漂ってくる。ゾロの母ちゃんの料理に、外れはない。
そうこうしているうちに鍋にはカレーのルーが投入され、風呂から上がってきた父ちゃんは濡れた髪のまま台所に入ってきた。スウェットのズボンにTシャツ姿の父ちゃんは、そのままエースの向かい側の席に座る。風呂に入ってから10分も経っていない。カラスの行水だ。
「ビール」
「俺の名前はビールじゃねえ」
お決まりの台詞を吐きながら、母ちゃんはグラスを2つと瓶ビールを食卓に置いた。ポン、と父ちゃんが栓を開けて、2つのグラスいっぱいにビールを注ぐ。
「歩きだろ?」
「もちろん。すんません、いただきます」
ズ、と泡のところだけまず啜って、ああ、と父ちゃんがだみ声を小さく漏らした。立派なオヤジだな、と母ちゃんがぼやく。
エースもちびりとひと口ふた口やって、フウ、と小さく息を吐いた。実はついさっき研究室から帰って、その足でここまで歩いてきたのだ。酒が血管を巡り押し広げていく感覚がして、全身から徐々に疲れがこそげ落ちていく。
「お前、今年で卒業だっけ?」
「順調に行けば……」
ふうん、と父ちゃんは豆を一気に5粒口に放り込んだ。
「卒業後は、どうすんだ。大学に残るのか?」
ふすまの向こうでは、ルフィとゾロがなにやら脈絡無いことをギャンギャンと騒いでいる。またゲームを再開したのだろうか。
「……一応、教授の伝手で、民間の会社に入る予定かな。研究職で」
「ヘェ」
「生活もあるし。つか、俺は研究ができればそれでいいし」
「ま、そうなるよな」
ずっけーぞ! とルフィが叫び、キャッキャ、とチビナスの笑い声がした。
「住むとこは? 今のアパートにそのまんま、か?」
「やー……それが、今んとこ駐車場無くて、でも仕事始めたらさすがに、ちょっと」
「じゃあ、引っ越すのか」
「つっても、近場だけど。ルフィの学区変わるのも困るし」
エースは現在大学院で学んでいるが、大学生時代からずっと弟のルフィと2人きりの生活を続けている。学費は奨学金で、生活費はアルバイトで賄っているようだが――実際のとこ、そうそうできることじゃねえよな、と母ちゃんは内心で呟いた。
父ちゃんと母ちゃんが結婚したのは、父ちゃんが警察学校に入る少し前のことだった。そして父ちゃんがまだ警察学校にいるころ、ゾロを生んで、暫くはひとりで育てて……。
「ここはどうだ」
「え?」
「市営住宅。お前なら多分抽選でも優遇されるし、家賃も収入ごとの振り当てだ」
酒を飲みながら父ちゃんの言った言葉に、エースは暫し鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、あ、と箸を置いた。
「考えたことなかったなァ」
作品名:市営住宅の真ん中の入り口の4階の右 作家名:ちよ子