艶やかな徒花と標本のモルフォ
ルートヴィッヒに名前を呼ばれるのは好きだ。キスされるのも抱き締められるのも好きだし、呆れた顔されるのだって、嫌いじゃない。待てって言った時の今にも強引に突っ込んできそうな肉食獣めいた顔とか、本当、堪んね。ストイックそうな顔してあれだもんな、1回好き放題やらせてみたい気もする。そうしたらどうなっちまうんだろう、俺。
「ギル、おいギル! 色々漏れ出してアントーニョみたいになってるからいい加減戻ってこい!」
「うぉ?!」
無粋なフランシスの声にルートヴィッヒの姿が掻き消される。
アントーニョみたいになっているとは失礼な、と思ったが、今の自分の状態を確認してみると確かにそんな感じだった。俺の名誉の為に最初に言っておくが、涎は垂らしていない、断じて。精々自分の腕で体を抱き締めるみたいにきゅーっとして、頬染めてたくらいだ。俺なんか可愛いもんだろ、本当に凄いんだぞドストライクな子供を目の前にしたアントーニョの奴は。
我に返ったもののまだちょっと火照っている気がする頬にぱたぱた風を送る。そんなことをしたって赤くなってるのは治らないが、まぁ気休めだ。
フランシスはそんな俺を見てやれやれと肩を竦めてみせる。
「もういいよ何も言わなくて。その様子で十分よく分かったから」
「俺の様子を見るまでもなく分かれよ。ルッツのどこを気に入ったかなんて一目瞭然だろうが」
「……顔?」
「隅から隅まで全部だばぁか」
「もう嫌や何なんこのヒルベルト?! 気持ち悪くて敵わんわぁ!」
言い切った俺に反応したのは、漸く衝撃から立ち直ったアントーニョの方だった。何をそんなに驚くことがあったのか、俺は首を捻るよりない。気付かないうちに男の趣味変わったのかな、俺。いやいや、そんなことはないと思う…多分。
ぎゃいぎゃいといつもの騒々しい会話──というより最早言い争いをしていると、軽くノックの後に扉が開かれた。ずっと話題の中心でありながら不在だったルートヴィッヒが銀盆を抱えて帰ってきたのだ。
テーブルの上にソーサーとカップが並べられ、綺麗な琥珀色の液体が注がれる。ポットを側のテーブルに置いてから、ルートヴィッヒは俺のカップの脇に小皿を添えた。そこはちょこんと小粒のチョコレートが乗せられている。
こういう時、俺が説明を求めて何かする必要はない。ルートヴィッヒはそこのところをちゃあんと、心得ているから。
「シューレンブルク卿から貴方にと」
「小忠実なことだな。……ん…ぁ、美味し」
口に放り込むとチョコレートは舌の上でほろ苦い味を蕩けさせた。べたべたに甘いのは苦手だから、俺にはこれくらいの方が丁度いい。
差別やー贔屓やーとアントーニョが不平を言っているのを尻目に、俺はひょいと手を伸ばす。すぐ届く位置に立っている、ルートヴィッヒに向かって。
「それはよう御座いまし…?! …ん……、は…」
「は、ぁ……な、美味しいだろ?」
引き寄せて無理矢理屈ませて、チョコレートの味を残している舌を口内に突っ込む。ルートヴィッヒは驚いた顔こそしたが、俺を振り払うような真似はしなかった。というより寧ろ舌を差し入れてより深く絡めさえした。
フランシスが盛大に視線を逸らしてアントーニョがまた固まっているのが見えるが知ったことじゃない。ここは俺の屋敷で、全ての決定権は俺にあるのだ。つまり端的に言えば何をしようと勝手。このまま押し倒して乗ってもいいかな、着替えた時の欲情が再燃してきたんだけど。
そこまでしたら流石に引かれるか? 別にこいつらに引かれたところで俺に不利益も害もないんだよな、正直。ヤバい、本気でシたくなってきた。脳内会議じゃ満場一致で押し倒す法案が可決されたんだが俺はどうすればいいんだ。
困る俺に、次なる行動の指示は迅速に出された。但し俺の内部からではなく、思い切り外部も外部、部屋の外から。
「ギルベルト様、お楽しみ中のところ申し訳ありません。至急ご意見を頂きたい取り引きがあるのですが…」
「…分かった、すぐ行く」
ちょっと席外すぜ、言い置いて俺は席を立つ。
まだ紅茶に口付けてなかったのにな、戻ったら冷めてそうだ。折角ルートヴィッヒが淹れたやつなのに。
俺がちぇーと唇を尖らせたのに気付いたのは誰一人としていなかった。
◆ ◇ ◆
気紛れで自分勝手な我が主人が呼ばれて出ていってしまってから、室内には実に居心地の悪い空気が漂っていた。それは俺のせいではなく、明らかに残り2人のせいである。彼らがギルベルトとどのような関係であるのか、俺は一切知らないし聞かされてもいない。それでも先程までのやり取りを見ていれば、気の置けない仲なのだということは認識出来た。
ざわりと心の深い部分が波打つのは何故なのだろう。幻覚じみた息苦しさに俺は深く息を吸い込み、細く長く吐き出す。そうすれば幾らか平静を取り戻すことは出来たが、居心地の悪い空気ばかりは何ともならなかった。俺が原因でないのだから俺にどうにか出来る筈もないのだが。
そろりと視線を向けると、金髪の男が俺を手招いた。近くに来い、ということらしい。ギルベルト以外の命に従うことなどしたくもないし普通ならしないが、俺はとにかくこの空気をどうにかしたかった。立っていたソファの脇から机を挟んだ対岸まで移動すると、男が間近から見つめてくる。
動いた拍子にふわりと何かの匂いが鼻を掠め──俺の記憶は一気に何週間か前に引き戻された。帰ってこない筈だったギルベルトが帰ってきた日。何か嫌なことがあったのだと知れる行動を取った彼の髪には、誰かの移り香がついていた。甘い香水の、匂い。そうだ、この匂いはあの日嗅いだものと全く、同じもの。ならばあの日、この男がギルベルトの側にいたというのか。
俺は知らず厳しい眼差しで男を見下ろす。そのことに気付いているのかいないのか、男は口元にうっすらと笑みを浮かべている。それがどうしようもなく心を波立たせた。
何だと、いうんだ。こいつは何を考えている。こいつはあの日一体何をした。何をされたらあんな風に、あの人は、ギルベルトは、打ち拉がれて。
ギリ、と耳障りな音がする。何かと思えばそれは俺が歯をキツく噛み締めた音だった。
男が笑みを濃くして、ゆっくりと口を開く。
「そんなに怖い顔するなよ。一体何を恐れてる?」
何も恐れていない、とは、とてもではないが言えなかった。答えの代わりに男を力の限り睨み付ける。
ギルベルトに何をしたと問い詰めることは俺には出来ない。何があったのだとギルベルトに問うことも俺には出来ない。それは決して望まれない行動であるから。それは決して、受け入れられない行動であるから。
何を恐れているのかなど、自分自身でもよく分からない。けれど胸の辺りがもやもやして、どうしようもなく苛立ちが募った。男から立ち上ぼる甘い匂いが感覚を惑わせて、全てを曖昧にしていくようだ。
獣のように低く唸って威嚇しそうになるのをどうにか耐える。一応はギルベルトの客人であるから、無礼があってはいけないだろう。礼を尽くしてやる必要は、特段ないと思うのだが。
作品名:艶やかな徒花と標本のモルフォ 作家名:久住@ついった厨