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つむぎゆくもの

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それを、自分は、遠く近い場所から見つめていたのだから。二つの世界の間にそびえたつ、荘厳な扉を開けて、彼が帰っていくのを見つめていたのだから。
美鶴は軽く唇を噛んで、何かを自らに言い聞かせるように目を閉じてから、そっと角の向こうを覗いた。
薄闇に飲み込まれそうな学校。その校門の前に、はたして彼は立っていた。
もう誰も居ないように闇に呑まれかけている校舎に、がっくりと頭を落とし溜息をついている。
諦めきれないのか校門から中を見渡し、やはり誰もいないのに悔しそうに顔をしかめていた。
また溜息をつく。そして校門によりかかって…自らの右のてのひらを眺めていた。
何を、と美鶴が思って眉をひそめたときに、彼は漆黒の瞳に強い光を宿らせて口を開く。

「絶対、諦めない」

それは、そう大きな声ではなかったのに、ひどく響いた。大きく、世界に響いた。
その瞬間に、美鶴は踵を返していた。
角をもう一度曲がって、また次の角を曲がって、彼の存在が感じられなくなるまで。
いつもより足早になっていることに気づきながらも、歩調を緩めることはしない。

「どうして…」

ぽつりとこぼれ落ちるように漏れてしまった言葉に、美鶴は足をとめる。
長く伸びる影は美鶴ひとりのものを映し出していて、閑静な住宅街にはちらほらと明かりが灯り出す。
どうして、どうして、なんで。
何故そんな強くいられる。
幻界のことなど忘れ去っているかもしれないと、何故不安に思わない。
何故、そこまでして、自分を追い求める。
次々に浮かんでは消える考えを、美鶴は振り払うように頭を振った。柔かな髪がふわりと揺れる。
ゆらり、よろめくように美鶴は足をとめて道路脇の壁によりかかった。
どん、と背中から伝わる衝撃に一瞬喉がひゅっと鳴って、深く息を吐き出す。

「諦めろよ」

静かに静かに零れた言葉は、美鶴が思ったよりもずっと悲しそうでやりきれなさそうで、痛々しくて、笑ってしまった。
諦めてほしくないとでもいうのだろうか。
バカだ。会えるわけがない。わざわざ転校先にまで押しかけて、校門前で日も暮れかけてから待つなんて、会えるわけがない。
聞いて回れば美鶴に迷惑がかかる、そう思って待っているだけしかできないでいるだろうことなど、美鶴にはすぐに分かった。
そうでなければ、彼がただ待つだけなどやるはずがない。
ぱた、とこぼれ落ちた雫でアスファルトがその色を濃くする。
目をきつく閉じて美鶴は頬を濡らすものを無視した。泣くことなど忘れたはずだった。
どうして待ってくれるのが、彼なのだろう。
美鶴の世界をあれほどに響かせながら、踏み入ることなく、壊すことなく、ただ待ってくれるのが。
悔しいのか、悲しいのか、嬉しいのか、分からなかった。
ただひとつ分かっているのは、もう、美鶴は彼に会う気がないこと。
それだけだった。

「さよなら」

美鶴はゆっくりと壁から身を起こすと、乱れた髪をふわり、揺らした。
誰に言うでもない、それでいてその誰かのためだけに滑り落ちた言葉が、涙のひとしずくと一緒にはじけて消えた。



◆◇◆



光に導かれた先には、手を繋いでいたはずの妹の存在はすでになかった。
肉体は細かな欠片となって消えうせたはずだったのに、ミツルは静かに横たわっていた。
服も変わらないまま、黒衣の魔導士のローブを纏っており、長いすそがやわらかに広がっている。
ミツルはゆっくりと瞳を開くと、ぴくりと指先を動かしてその状況を把握した。
ぱさりといくぶんか長い髪が流れ落ちて、それをかきあげて上半身を起こす。
天井は、見上げれば気が遠くなるほどに高く、床も壁も透き通った水晶のようなもので出来ているのに、底は見えない。
見たこともない光景だった。
ふと気づけば、幻界では常に身につけていた杖はない。
そうして、自らが一度死んだことを思い出す。

「ここは…」

ミツルが発した言葉は思ったよりも水晶に響いて大きく伝わる。
唇を指先で咄嗟におさえて、ミツルは辺りを見渡した。誰も居ない。そして、何もなかった。
座り込んだまま、今度は耳を澄ます。何の音もしない、耳が痛くなるほどに。
全てが不可思議だった。肉体が滅んだのであれば、この身体は魂だけの存在だとでもいうのだろうか。
自分の身体を見下ろして、そう考えた時に、視界の端に小さな光が映った。
不意に現れたそれをいぶかしんで見つめているうちに、その光はミツルから少し離れたところで段々と形を成していく。
それは、人の形をしていた。
ミツルは思わず手を握り締めた。魔導の杖はない、戦うことは出来ない。光はいかにも怪しげだった。
そうして、光は完全なる人の形となる。
光は全てがおさまったわけではないために見えづらいが、それはミツルがよく見知った姿の人物だ。
ふわりと広がる長い髪。少女らしい可愛らしい笑みを浮べた唇は緩やかに弧を描いている。裾のレースもたっぷりとした白いドレス。
それらはすべて、ミツルが笑いかけ、取り入り、騙し、裏切った少女、皇女ゾフィの姿だ。
けれどミツルは表情をぴくりとも動かさなかった。
おせっかいにも泣いて泣いてしゃくりあげながら祈りの言葉を紡いだもう一人の"旅人"の言葉には頷いたけれど、後悔は確かにしたかもしれないけれど、騙したこと裏切ったことを今更悔やんだところで事実は変わらない。
それに、この皇女は皇女ではないとミツルは見抜いていた。
その面差しは皇女よりも、どちらかといえばミツルの叔母に似ている。
そして何より、その気配が皇女でも叔母でもないことを如実に語っている。
ミツルは自分から口を開こうとは思わなかった。ゆっくりと立ち上がると、少し離れた場所で同じように立っている少女を見つめる。
少女はにこりと笑みを浮べると、すっと右手を美鶴に向かって差し出した。
その手はミツルには届かないまま、ひとつ、またひとつとその掌から光が浮かび上がる、その色は、赤、薄緑、蒼、琥珀。
ミツルが集め、そして手離した宝玉だった。
黒だけが存在しない四つの宝玉は、ふわり、少女の手を離れ、ミツルのまわりを愛しむように輝いて吸い込まれるようにミツルの中に消える。

「ミツル」

少女が静かに名前を呼ぶ。可愛らしい桃色に色づいた唇から紡がれる声は、柔かでありながら威厳をも感じさせる。
ミツルは静かにこうべをたれて、はい、と答えた。もう何となくではあるが、この少女が何者なのか、分かりかけていた。
少女はそんな様子を見つめて唇をほころばせて続ける。

「すべて、あなたの思うように」

その言葉の意味を尋ねる前に、少女の輪郭はゆらぎ、一際強い光を放つと、もうそこには誰も居なかった。
その代わりとでもいうように、今度はミツルの背後に人の気配が現れた。かつん、と足音が響く。
美鶴はゆっくりと振り向いた。黒のローブが美鶴に続いて翻る。
そこには、銀のブーツを履き、甲冑を身につけた、美しい金の髪をした男が一人、立っていた。



◆◇◆



小学校の付属図書館の蔵書量などたかが知れている。
だいぶ学校に馴染んだとは言えない、慣れたころには、美鶴が好むジャンルの本で未読のものは、ほぼなくなっていた。
作品名:つむぎゆくもの 作家名:あめ