つむぎゆくもの
それに、美鶴が図書館に通っているという話が広まってしまったらしく、学校では落ち着いて本を読むことすらできなくなりかけている。
いい機会だとばかりに、美鶴は目的地を市立図書館へ変えた。
この市の図書館は、それなりに大きなものであって古めかしい造りをしている。
勉強場所に選ぶ高校生や、専門書を借りに来る大学生、一般教養のための本を求める社会人、来るのはそれくらいで、その中に小学生は含まれない。
児童図書室にはいるだろうが、一般書架ではほとんどと言っていいほど子どもの姿は見受けられない。
美鶴はそんな、子どもを拒絶しているかのような雰囲気をものともせずに、中へと足をすすめた。
相変わらず、この世界は、芦川美鶴という殻を壊すことができないまま生活しなければならない、と思いながら。
そびえたつ書棚の間をすりぬけるようにして奥へと進み、目当ての本を見つけると、それを片手に美鶴はソファへと沈んだ。
本を読む者よりも、勉強道具を持ち込んで自習室代わりにしている者が多いこの図書館では、こんな奥まったところまで来るものは少ない。
机もなくソファだけであることもあり、利用者も少ないようで、美鶴は自分以外の者がここを使用しているのを見たことがない。
ぱらりと本を開く。図書館独特の本の匂いが広がる。
新しい本ならばインクの匂いでもしそうなものだが、美鶴が手に取ったのは年季の入った、ともすれば旧書庫に持っていかれそうなものだった。
日に焼け、変色してはいるものの、しかし、美鶴はそういった本が嫌いではない。
静けさの中に沈んでゆく。
どれくらいの時間がたったのだろうか、ふと気づいて壁にあるはずの時計を探すと、そろそろ閉館の時刻だった。
読みかけたページに、禁帯出のその本についていた紐のしおりを挟むと、美鶴はそれを書棚に戻そうと立ち上がろうとして、穏やかでない足音を耳にした。
確かに閉館時刻はせまっているが、そう急ぐ時間ではない。
それに、出入り口はこちらにはなく、美鶴が座っているソファの先には何もない。
予感がした。
美鶴は鞄にかけていた手を離すと、右の掌をに差し出した。
書棚も、本もすり抜けて、さあっと美鶴の視界だけが開ける。そうして見えたものに美鶴は一瞬眉をひそめて、すぐに手を握り締めた。
視界は元に戻り、美鶴は一瞬周りを見渡した後に、小さく息をついた。ここから先、出口はないし、ここまで来る通路はひとつしかなくそこに出るわけにはいかない。
手馴れた仕草で素早く印をきる。それは、幻界での宝玉の力によるもの。杖はなく、しかし美鶴の身体には確かにその力が宿っていた。
一瞬で、美鶴の姿はかき消えた。
現れたのは予想通りの人物だった。
短い黒い髪、意志を秘めた強い漆黒の瞳。走ってきたらしく肩で息をしている。
そして、誰もいないソファを見つけてたちまち落胆の表情を浮べた。
「せっかく…ここにいるって…聞いたのに…」
息も絶え絶えに呟かれた言葉から察するに、司書にでも聞いたのだろうか。
子どものほとんど居ない一般書架、その中でも整った容姿、人とは違う雰囲気をまとう美鶴は目立つ。
美鶴は、音を立てないようにそうっと立ち上がった。姿は消すことが出来ても、この印では音までは消せない。別の魔法を使うべきだったかもしれないが、それを詠唱するほどの時間がなかったのだ。
彼は、それには気づかないまま、ソファの上に置かれたままの本を手に取った。
悔しさと悲しさと嬉しさの混じった複雑な表情で、笑みを浮べる。少年の姿に似つかわしくない、酷く大人びた疲れた笑みだった。
今の今まで美鶴が座っていた隣に腰を下ろすとかけていた鞄を下ろし、深く溜息をつき、美鶴の本を両手に持つとじっと見つめたまま唇を噛んでいる。
「ミツル…」
名前を呼ばれて、美鶴は心臓を鷲づかみにされたように感じた。と同時に、鋭い何かで刺されたようにも感じた。
それくらい、何かの思いの込められた重い声だった。
少年は何も気づかないまま、ぽつり、ぽつりと言葉を紡いでいく。
「会えない、のかな。居るのに、居ない、の?
僕はミツルに会いたい。会いたいよ、ミツル。
あんな…あんなサヨナラで終わりだなんて、絶対にいやだ」
それは、今にも折れそうな声なのに、決して折れることのない言葉。
さよなら。
それは幻界で何度も美鶴が口にした言葉だった。告げられた"旅人"がそれをどう感じていたかなど、美鶴は知らない。
ただ、美鶴は本当にそれが永久の別れとなるかもしれない可能性をもって口にしていた。
別に自分のことを気にかけてほしかったわけでも、忘れないでほしいといった理由を含めていたわけでもない。
ただ、何故か。
幻界で再会するたびに何かしらの強い意志を秘めて美鶴を見つめてきた"旅人"と言葉を交わす最後なら、それしかなかったのだ。
それを、目の前の元"旅人"はいやだと言う。
美鶴が何の表情も浮べないまま、少年を見つめている間も、時間は静かに過ぎていく。
軽やかな音楽と共に、閉館の放送が入った。
少年はそっと本をソファに戻すと、来た時とは対照的に静かに立ち去った。その瞳は前に再会したときと同じく、諦めないと語っていた。
その後姿が消えてなくなると、美鶴はようやく印をとく。
体力を奪う印は、美鶴を酷く疲れさせていたけれど、原因はそれだけではないと美鶴は思った。
別離の言葉は意味をなしていない。
「…ヴェスナ・エスタ・ホリシア」
疲れきった身体をソファに沈ませて、美鶴はかすれた声で呟いた。
彼はこの言葉を信じているのだろうか。美鶴はその後にさよならと言ったのに。
酷い眩暈が美鶴を襲っていた。しばらく動くことはできそうにない。
時計は閉館時刻を過ぎており、しばらくすれば施錠のために見回りが来るだろう。あまり悩んでいる時間はなさそうだった。
美鶴は緩慢な動作で、右手を空中にかざす。
宝玉の力も、詠唱も必要とはしない、魔法と言えるかどうかすら定かではない術だった。
美鶴の掌のあたりから音も立てずに空間が歪んでいく。ふわりと自然のものではない風がわき起こって、美鶴の髪が揺れる。いつの間にか服も黒のローブをまとう魔導士のものになっている。
やがて歪んだ空間がひと一人呑み込める大きさのものになると、美鶴は何のためらいもなくその中に倒れこむようにして飛び込んだ。
後には、ソファの上に一冊の本が置かれているだけだった。
◆◇◆
次に気づいたときには、美鶴はベッドに横になっていた。
ゆるゆると目を開けると、真っ白なベッドの上で、横たわっていた。
真っ白なベッド、シーツ、枕、そして水晶の空間。
美鶴はゆっくりと身体を起こすと、頭の芯に残っているような軽い頭痛を振り切るように首を振る。
「気がついたかい?」
美鶴の座るベッドの反対側から声がかかった。美鶴は片手を頭に置いて乱れた髪をかきあげて、視線も向けないまま億劫そうに、ああ、とだけ答える。
穏やかで落ち着いた声の持ち主は少しだけ笑ったようだった。
かつん、と静かな足音を水晶の床に響かせて、近づいてくると美鶴の座るベッドに横向きに腰掛ける。
僅かに軋んだベッドにバランスを崩しかけた美鶴を、驚いたように力強い腕で引き止める。