いつか
この黒いもやの名前が何であるのか、エミリアには判らない。もしミカに訊ねればにっこり笑って教えてくれる気がしたが、そうする気も更々無かった。
ただ、何となく、気に入らないのだ。その事実だけで充分である。
あたしのパートナーなのに、と思う。
それなのにあたしをずっとほっぽって、いいと思ってんのかしら?あの男は。
考えているうちに、黒いもやへ、微かな不安も混じり込んでいく。
もし自分が過去を教えてくれと頼んだところで、リルは本当に教えてくれるのだろうかと。所詮、パートナーとは名ばかりで、クラウチから押し付けられた子守のようなものなのだとエミリア自身判っている。
リルにとって、己とは。
もしかしたら、戦闘能力の高い、ユートの方が余程
「エミリア」
リルの声音が突然、エミリアの黒い思考の渦を堰き止めた。顔を上げると丁度、眼が合った。淡い黄金色の眼。
「な……、何?突然?」
あの色にじっと見詰められると、何故か己の内面を全て把握されてしまう気がするのだ。今考えていた事も知れてしまったのだろうかと、エミリアが有り得ない可能性について危惧していると、リルは掌を伸ばしてすいと振った。
「、?」
「お前も来い」
「はあ?」
「鍛錬が必要なのは、俺やユートだけじゃないだろ」
どうやら鍛錬に混ざれと、言われているらしかった。
「わ、悪かったわね、どうせいつもあんたの足引っ張ってるわよ!」
「そう思うのなら尚更。パートナーだろ?」
「ぐ……」
そう言われてしまうと何も言い返せない。
「エミリアにも稽古、つけるのか?
じゃあ僕は?まだ終わってないぞ!」
「ああ、うん、お前の鍛錬も続ける」
「どういう事だ?」
不思議そうなユートの頭を少し撫で。リルはエミリアを見遣った。
「ふたりで、かかってくればいい」
「は、はァ!?
ちょっ、あんた、本気!?」
「……そうだな、楽しみがあった方がやる気になれるかも知れないな、
俺に勝てたら、カフェで食い放題飲み放題。おごってやる。
それでどうだ?」
「プリン食べ放題!!」
涼しい顔で提案するリルの傍らにて、ユートが早々乗ってしまった。無茶だと止めようとするエミリアの眼に、リルの不敵な笑みが映る。
「ユートはこの通り。お前はどうだ?
やっぱり、自信が無いか?ふたりがかりでも」
この不遜な言葉が挑発である事を十二分に理解している。しかし。火がついてしまった。この男に、自分を認めさせてやりたいと。
立ち上がり、愛用の片手剣を握りしめる。
「…………いいわよ、そんなにボコられたいなら、やってやろうじゃない。
言っとくけどあたし、めちゃくちゃ食べるからね!ケーキだってホールで頼むから!
あんたの持ち金全部無くなったって、貯金から出させるからね!」
「了解、じゃあ始めよう、いつでもいいぞ」
エミリアの言葉も軽く笑って流し。リルは先刻よりもやや腰を落として双手剣を構え直した。双手剣は、リルのあまり使わない武器である。つまり得手では無い。ふたりを同時に相手にするというのに、未だ武器を変えないようだ。
「ユート……あたしたち、思いっきり、舐められてるみたいよ、あの男に」
「エミリア、プリン食べ放題だぞ!」
「そうね、プリンね……プリンたらふく食べたいでしょ?
あいつをギャフンと言わせてやるのよ、あたしたちの手で」
「ギャフン?聞いた事無い言葉だな、それをリルに言わせるのか?
おもしろいか?それ」
「面白いに決まってるでしょ!
とにかく、行くわよユート!あんたはまず左から!あたしは右から回り込むから!」
「判った!」
ユートが走り出す。
それを追い、一足遅れで反対側へ回った。
「おりゃああ!」
胴あたりを狙ったユートの槍が易々と流される。
「狙いが判りやす過ぎる、もっと考えてみろ」
講釈を垂れるリルの反対側の肩口めがけて、エミリアが片手剣を振り下ろした。ユートの方に顔を向けたまま、リルの右の剣がそれを受ける。
「み、見てないのに」
「軽過ぎるな…
もしこうして受けられても、一撃がもっと重ければ怯ませる事も出来るだろうに。
手数でいくというなら、もっと速さが欲しいところだ」
ユートとエミリアは互いに飛びずさり、それぞれ再び力を込めて打ち込んだ。
ふたりがかりだからと、気が引けているのではない。本気なのに。本気で打ち込んでいるのにリルには掠りもしない。まるでリルにはふたりの動きが予め判っているかのように、何処を狙っても簡単に防がれてしまうのだ。
わけがわからない。
眺めているだけでもリルが強いという事は重々理解しているつもりだったが、こうして実際に自分が刃を交えてみると尚一層痛感する。リルという男は、本当に、強い。
「同時でも何でもいいぞ」
涼しい表情のまま首を鳴らす。筋骨隆々という身体つきでも無いのに、何処にこんな力があるのだろうかと思う。
ユートが一度吠え、空気を裂きながら突いていく。上体を傾げてそれを避け。同時に横から薙いだエミリアの一閃を上からはたき落とす。取り落としそうになった剣を強く握って、リルを見据えた。
これが、エミリアのパートナー、リルという名の男。
この男にエミリアなど、必要なのだろうか。ろくに戦闘経験も無い、小娘の自分など。リルに接するたび、閉じ込めた不安が噴出する。
「僕は、まだまだやれる!」
ようやく、己の居場所というものに指が触れている。とてもあたたかいところ。この男と共に居る事がエミリアの安息であり、誇りであり、幸福である。
けれど。
本当に、此処に居続ける資格が、自分にあるのか。
ユートの槍が袈裟掛けに迸り、弧を描いて再び、避けたリルの身体を襲った。
「大分いい」
言いながらリルの左の剣がユートの勢いを削ぐ。力を込めていた分、流されたユートは地に転がった。
「緩急、だ、それを繋げていけばいい、攻撃は一度きりじゃない」
「やァ!」
下から打ち上げようとしたエミリアの剣も、あっさりとかわされる。かわされてよろめきそうになる己の足を必死で踏み留まり、反対側からもう一度斬り上げた。そしてもう一度。
「そう、避けられてもその次を常に考えていかないとな」
呼吸も乱さず、リルは微笑んでさえいる。
この男にとって自分は何なのだろうと思う。今でも、上から託された子守の任を全うしている、そんな意識なのだろうか。リルはエミリアを蔑ろにはしない、邪険にもしない、けれど。本当に自分はこの男の中でも、ちゃんと、パートナーなのだろうか。
否。
どうであろうと。例え、リル自身が本当にパートナーだと、そう思ってくれていたのだとしても。
己が納得出来なかった。出来る筈もない。こんな人間がこの男の隣に立ち続ける事を、誰より己が許せない。万一己が未熟な所為でまた、リルを危険に晒す事になれば。そうならないようにと誓ったのではなかったか。リルにふさわしいような。リルを支えられるような。リルに必要とされるような。そんな自分になれるようにと。
「…………ユート」
肩で息をしながら、エミリアはユートへ耳打ちをした。
「へろへろになりながら打ち込んだって勝てっこないわ……
あんただってもう限界でしょ?