Doubt
さて、と。
とりあえずは、地図を頼りに、大佐が宿泊していたという宿へとやってきた。町の中心街からは少々離れたところにあり、周囲は民家が建ち並んでいる。
3階建ての宿で、1階は酒場として営業しているらしい。何処にでもある感じの、典型的な町の宿だ。
扉を潜れば、恰幅の良い、人の良さそうな親父さんがいらっしゃいと威勢の良い声を掛けてきた。
「部屋空いてるかな」
「この辺りは祭りの時でもなかなか満室にはならないさね。兄さんは一人かい?」
「連れはいないなぁ。というか」
そこで声のトーンを一つ下げる。
「…捜しに来たんだ」
これ、と身体で隠しながら身分証を見せると、店の主人は事前に連絡を受けていたか、訳知り顔でああと頷く。
「ヒューズって人から昼過ぎに電話があった。あんたのことは聞いてるよ」
宿屋の受付からは酒場の方は遠く、まだ時間も早いために客もいない。それでも店主は少々声を落とすと宿帳を差し出した。宿帳に書き込みながら前のページをめくれば、上司の筆跡で違う名が。
「しかし兄さんこんな所までご苦労なこったな」
「ホントになー。まさかこんな遠いと思わなかった」
「鉄道でも走ればまた違うんだが、この辺りは渓谷が多くて工事自体も難しいんだろう」
「・・・で、おやっさん。結局何があったんだ?」
そう問えば、店主はうーん、としばし考え込むと、彼は僅かに首を傾げた。
「何があった、って聞かれれば…、特に何があったわけでもないんだよな…」
あの黒髪の若いの(大佐はいくつだと思われているんだろうと思ったが、ここでは思うに留まっておいた)が宿を求めてやってきたのは一昨日の昼前頃。
それから一度、人に会うと言ってふらりと宿を出て行き、夕方頃に戻ってきたという。
「で、そいつらが来たのはその後でな。何かそれなりに良い身なりをした男が来て言うんだ。『黒髪の若い男が来てないか。ここで会う事になっている連れなんだが』ってな。だからその兄さんの事だと思ってな、いるって言っちまったんだよ」
そいつらが言う風体が、兄さんに当て嵌まってたから、てっきりその『会う人』だと思いこんじまって、と宿の主人は薄い頭を掻いた。
「なるほどねー。…それで?」
「呼ぶか?って聞いたら、『約束の時間までまだある、先に用事を済ませてくるから別に良い』ってどっか行っちまった」
「尋ねてきたその男に見覚えはあった?」
「あー…どうだろうな。商売柄、結構人の顔覚えるのは得意なんだが、そいつは帽子を深く被ってて、顔がよく判らなかったな」
「そっか…」
「それからしばらくして、妙なごろつきっぽいのが3人ばかり入ってきてな。勝手に2階に上がってって。何する気かと思ったら、結構すぐ降りてきたんだ。で、その時にその兄さんも一緒だったんだ」
『これから人に会う事になった。そう遅くはならないと思う』
彼は手ぶらだった。前後をその連中に挟まれるみたいにしていたけど、様子に変わった事はまったくなかった。
ただ、やはりそぐわぬ面々に囲まれているので、ちょっと気になって見ていたところ、扉をくぐりしな、不意に振り返った彼は、ああそうだ、と続けた。
『水差しを倒してしまって、シーツを濡らしてしまったんだ。できれば替えを用意してもらいたい』
「シーツを?」
「ああ、あの兄さんはそう言ったよ。別に替えるくらい何ともねぇから、その後さっさと替えに行ったのさ。そしたら別に水差しなんて倒れてねぇし、シーツも濡れてねぇ。おかしいなと思ったけど、一応シーツ剥ぐかと思って枕退かしてみたら、…これが」
ほら、と差し出されたのは小さな紙片で。手帳を破ったと思しき紙に、走り書きが残されている。
『1晩たって戻らなければ、この番号に連絡を』
筆跡は間違いなく上司の字だ。
「取りあえず一晩様子を見ようと思ってな。でもその晩、あん人は帰ってこなかった。で、それでその番号の、同僚って人に電話したんだ」
…なるほど。
連れ出されたとか言うから、どんな状況だったのかと思ったが、自らの足で出ていった、と。しかも別に拘束もされていないというのがまた。
司令部に直接連絡を入れずにヒューズ中佐の所を経由したのは、軍人だという身分を明かしていなかったからだろう。別に軍服を着ているわけでもないオフの時に、不用意に軍人だとバレれば面倒な事に巻き込まれる可能性もあるので。
それに直接司令部に連絡したとしても、今回上司が使っている偽名の軍人は、実際東方司令部には所属してはいない。作戦絡みならまだしも、こんな突発なぞまともには取り合ってくれない。
それに、相手が一体何者であるか確信のないうちに、事を荒立てる訳にはいかない理由もある。
「時間は何時頃だった?」
「そうだな…んー…男が尋ねてきたのは、ちょうど昨日の今くらい。で、兄さんが連れてかれたのはそれから小一時間経ったか経たないか、くらいかな」
「じゃ、まだ人通りはある間だよな…」
そこで黙り込んだハボックに、部屋を見に行くかい?とわざわざ聞いてくれた店主の言葉に甘えて、自分の部屋に荷物をつっこむついでに大佐の泊まっていた部屋を開けて貰った。
…が、別段おかしな所もない。
小さなクローゼットの下の引き出しにつっこまれていたままの鞄はそのまま残されていた。手荷物として持ってきていたのはこれだけらしい。
ざっと見てまわったが、身の回りの物や財布、あのデートの予定がびっしりとかいう噂のムカツク手帳なんかはそのまま残されている。
だが銀時計はない。多分持ったままなんだろう。…それにしても随分と軽装だ。
「…おやっさん、あの人何泊するって言ってた?」
「別にいつまでとは言ってなかったな。1泊分の代金は全額前払いしてくれたぜ」
…てことは1泊だけしてすぐ帰るつもりだったんだろうな。
「・・・何か他に変わったこととか、気付いたこととかなかったかな?」
「別にこれといって何にも・・・って、あれくらいかな」
「あれ?」
「あの兄さんな、うちのかみさんと娘っこに花くれたらしいんだよ」
「・・・・・・は?」
な?
花?
想定していたどれとも違う返答に、くわえていたタバコの先がヘコリと下がる。しかし店主はそんなハボックの様子にはまったく気付くこともなく。
「確かどっかで買ったとか貰ったとか言ってた気がするなぁ。何かこう、女が好きそうな花束でな。かみさん、オレからも花なんか貰った事ねぇってそりゃ大喜びさ。でもまだオレはそん時はあんま直接話してなくてさ」
その話しだけ聞いた時には、かーっ気障な野郎だと思ったんだが、あとでちょっと話こんじまってな。
「まだ若いってのに、なかなかどーして話のわかる男だったよ!あんたもあんま軍人さんには見えねぇけど、あの兄さんの方が全然そうみえねぇな!」
「あー…よく言われてる、みたいだけど」
「そーだろ。軍人にしとくにゃ惜しいや。ありゃぁいい男だな。ずいぶん女泣かせてきたんじゃねーの!」
・・・何言ったんだあの人。
普段は男には基本的に受けの悪い上司が何でだか絶賛されている気がする。まぁ十中八九、何枚あるのか分らない舌が大活躍したんだろうが。
てゆーか花ですか。