フリークスの楽園
○ 6日目
数日で記憶が戻るとの新羅の言葉に反して、臨也の記憶は戻らなかった。
そんな中で、静雄が自身の感情の明白な変化を認めたのは、六日目の夜だった。
仕事から帰ってきたら、いつものように狭いリビングのテーブルに仇敵が座っていて、静雄を見ると、嬉しげに笑って「お帰り」と声を掛けてきた。そういえば、6日も一緒に住んでいて、そんなごく普通の挨拶の言葉をかけられたのははじめてだ。戸惑っているうちに、臨也はキッチンに向かってしまった。またコーヒーを淹れるのだろう。
言葉を返すタイミングを失ってしまった。明日、同じように臨也が声を掛けてきたら、明日こそは答えよう。そう思って、そんな自分に愕然とする。
いつから、一体いつから憎くてたまらなかった折原臨也との“明日”を望むようになったのか。
さらにその夜、こんなことがあった。夜のうちに洗濯機を回そうと思い、ついでだから着ていたシャツも洗おうとそれを脱いだその瞬間に、歯を磨きに来たらしい臨也が洗面所に入ってきた。確かに静雄は上半身裸の状態だったが、花も恥らう乙女でもあるまいし、どうってことはない。そう、なんてことのない出来事だったはずだ。
だが静雄は咄嗟に、右腕を臨也の死角に隠したのだ。
「洗濯機、まわすの?」
「…ああ」
「じゃあ俺のシャツもついでに洗ってよ」
「一枚1000円な」
「たっか!」
臨也は静雄の不自然な動作には気付かなかったらしい。静雄は急いで、近くにあった長袖のシャツを着込んだ。
何故、腕を隠すような仕草をしたのか。静雄は、轟音を立てて回る洗濯機を見ながら、自身の行動について考える。答えは、すぐに出た。今回ばかりは、もう目を背けることができなかった。
すなわち、静雄は、臨也に己の右腕を見られることを怖れたのだ。たった3日前にざっくり切られたはずなのに、すでに傷痕の名残すらない右腕を。
では、と静雄は更に自問する。なぜ、もうとっくに傷の消えた腕を見られることを怖れたのか。その答えの問いも、悲しいくらいに近くにあった。目を背けたくなるほど近くに。
つまり臨也に、自分が人間ではないことを知られるのが、どうしようもなく怖かったのだ、と。
○ 7日目
「お帰り、シズちゃん」
「……ああ」
朝から夜までずっと雨が降っていた。深夜に近い今となっても、やみそうな気配もない。
臨也は夜半から、フローリングに座り込んで、また酒を飲み始めていた。今日はビールではなく、瓶に入った透明なリキュールを、氷を入れたグラスに注いで飲んでいる。当然、この家にもともとあった酒ではなく、臨也が購入してきたものだろう。
興味を引かれて瓶を取り上げると、鮮やかなステンドグラス風のラベルがついていた。見覚えのある銘柄だった。
「パライソ?」
「そう。シズちゃんが知ってるなんて意外だな。 ああ、バーテンだったんだっけ?」
「長く続かなかったけどな」
目の前のこの因縁深い男のせいで。だがそんなことを綺麗さっぱり忘れている臨也は、苦笑している静雄をちょっと不思議そうに見てから、またグラスを傾けた。
パライソは、バーテンをやっていた期間などたかが知れている静雄でもそれなりに知っている程度には、知名度の高いライチ・リキュールである。他のフルーツとの相性もよく、オンザロックやストレートよりもカクテルの材料として使われることが多い。このリキュールにグレープフルーツジュースとトニック・ウォーターをステアしたものなどが有名だ。
「グレープフルーツジュースくらいならあるぞ」
「シズちゃんが作ってくれるの?」
「ふざけろ」
「……まあ、今日はカクテルよりもロックな気分だからさ」
ちょっと凹んだような顔を見せた後で、気を取り直すようにまた一口、澄んだリキュールを飲んだ。なんとなく気を引かれて、臨也が持っていたそのグラスを奪い取り、静雄も口にする。冷たいリキュールは、ライチの甘さと強いアルコールが心地よく喉を灼く。
「バーテンだったなら知ってるかもしれないけど、パライソってさ、楽園って意味なんだよ」
「…へえ」
聞いたことがあったかも知れないが、大して興味もなかったのか取りあえず覚えていない。だがその名前は、この美しいリキュールにとても合う気がした。
「ここにはこの酒が似合うよ。シズちゃんがいて、俺にとっての楽園だから」
「バカなのか?」
持ち前の無駄に澄んだ声で何かほざいている男の言葉を一刀両断にしてやるが、それでも今回はめげなかった臨也が、瞳に真剣な色を湛えて静雄を見つめながら、さらに口を開いた。
「シズちゃん、好き。好きだよ」
「…うるせえ」
この男の好意の言葉など、素直に受け取れるはずがないのだ。どうせ、記憶が戻れば、あるいは静雄の人の域を超えた体質を知れば、嘲笑い侮蔑し憎むのだから。
だが静雄の拒絶の言葉などさして効果はなかったようだ。嫌味なほどに綺麗に整った顔がやけに近いな、と思ったら、かさついた唇が触れ合う。キスされた、と気付いたのは、その顔が離れてからだった。
「…なっ、てめぇ…っ」
頭に血が上って、ぐっと拳を握り締める。だが殴ろう、としたそのときに、臨也がちょっと悲しそうに笑ったので、思わず動きが止まった。急速に怒気が萎む。動きを止めた静雄の耳もとで、また臨也が囁いた。
「…好きだよ」
溜め息みたいな呟きだった。
言うだけ言って、臨也はくるりと背を向けて、またリキュールを呷る。何故だか分からないが、背中を向けられたことが気に入らなかった。
今なら、リキュールに含まれているアルコールのせいにしてしまえるかも知れない。そんなことを思って、臨也の背に自分の背を少しだけ預ける。
「臨也。もう一回言えよ」
請うと、少しの沈黙の後に、雨音に紛れて聞き馴染んだ声が聞こえた。あと何度、聞けるか分からないその言葉は、静かな囁きだった。
そのときの気分をなんて表現すればいいのか、静雄には分からない。
ただ、ひどく、泣きたかった。