フリークスの楽園
後半:臨也視点
● 8日目
悪いことをしたら罰が当たるよ。幼い頃、何度か言われた言葉だ。
臨也はそれを信じていなかった。なぜなら臨也は、悪いことなら、それはもう数え切れないほどしてきたが、それに見合うほどの罰を受けたことがなかったからだ。世界は臨也にとって、甘くて優しい、寛容深い場所だった。
朝、少し寒いなと思いながら臨也が目を覚ますと、静雄が窓を開けて煙草を吸っていた。金の髪が風に揺れていて、ちょっと頼りなく見える。
「はよ、シズちゃん」
「…あー、わり、起こしたな」
静雄は頭を掻いて、まだわりと長い煙草を灰皿に擦り付けようとする。その手を掴んで押し留めて、その煙草を掠め取った。
「おい」
軽く咎める静雄を無視して、それを口元にもっていく。気まぐれに吸ってみた煙草は、おかしなほどに甘く感じられた。
「あ、結構美味しい」
煙を吐いてから率直な感想を述べると、静雄は対応に困ったような顔をしてから、ケースを手繰り寄せて、臨也に渡してきた。
「一本1000円で吸わせてやるよ」
「何その物価。それに、いらないよ。シズちゃんが吸ってたこれが吸いたかっただけ」
「はあ?」
「間接的なモーニングキスってやつ?」
「ば…馬鹿だろ!」
喚いているその顔が、赤く染まっている。分かりやすいなあ、と思った。やっぱり煙草を媒介としてではなくてキスしたいなあ、とも。だが、そんな臨也の煩悩を横に、静雄はすっと目線を外してから、言った。
「お前明今日新羅のとこで診察だよな」
その言葉に一瞬だけ動きが止まってしまったことを悟られないように、フィルター付近までしっかり灰にした煙草を今度こそ灰皿に擦り付けながら臨也は答えた。
「そうだね」
声がざらついている。口内も乾いてざらついている。甘いと感じた煙草は、それでもやはり相応の苦味を持っていたのだと、そのとき気付いた。
本日の朝食はトーストとサニーサイドアップ、それにサラダが並んでいた。いつもの朝食より一皿多いのは、今日は静雄の仕事がオフで時間があるためだろう。それをゆっくりと食べた後で、臨也は二杯分のコーヒーを淹れた。牛乳も温めて、静雄用のカフェオレを作って、自分も一口、二口飲んでから、おもむろに声を掛けてみる。
「ねえ、シズちゃん」
「あ?」
「俺さあ、今日診察に行くのやめようかなあ」
「…何言ってんだ」
「俺別に、このまま記憶が戻らなくてもいいなあ、なんて思ったりもするんだけど」
静雄は自身のカフェオレが入ったカップに手を掛けたまま、一瞬動きを止めた。物音が消えた静雄の部屋に聞こえてくる街中の雑踏が、まるで遠い世界のもののように思えた。
「いつまでもここにいられたら迷惑なんだよ。早く新羅に治してもらえ」
つかの間の無言のあとで、静雄が答えた。目線を合わせていない。
「ええー?いいじゃない、ここでこのまま同棲しちゃおうよ」
「同棲とかいうな。死ね」
「あ、酷い」
「とにかく、…行けよ、新羅のとこ」
「…分かったよ。その代わりさあ」
「あ?」
「お昼、パンケーキがいいなあ。作ってよ」
「はぁ?」
「ちゃんと行ってくるから、ご褒美」
「…めんどくせぇ」
とか言って、絶対作ってくれるくせに。臨也は楽しかった。幸せで、そして同じだけ悲しかった。
悪いことをしたら罰が当たるよ。そんな、いつ誰に言われたのかも定かではない言葉が、最近やけに頭にちらつき、離れない。
闇医者の住む贅沢なマンションでは、家の主が笑顔で迎えてくれた。
「やあ臨也、よく来たね。ということは、記憶は戻っていないのかな?」
「生憎とね」
「そう」
新羅は臨也をリビングへと誘い、コーヒーを淹れた。瀟洒なカップに注がれたコーヒーは、臨也が淹れるそれとは若干味が異なっている。豆が違うのだろう。臨也が静雄の家で淹れるものは、牛乳や砂糖を足してカフェオレにしても合うような豆を選んでいる。
――だってシズちゃん、ブラック飲めないからさぁ。
ここにはいない金髪の男の姿を思い浮かべていたら、ふと目の前でコーヒーを口にしていた新羅が、まっすぐ臨也を見ていることに気付いた。
「…なに?」
「臨也、これは医者と患者の間の信頼関係の構築のために、正直に答えて欲しいんだ。秘密は厳守する.から」
「どうしたの新羅、改まって」
「君、本当は記憶が戻っているね?」
その瞬間、臨也の思考が停止した。