フリークスの楽園
● ミイラ取りはかく語りき・2
5日目の夜、「好きみたいだ」と告げたら、静雄は一瞬の間をおいて、泣きそうな顔をした。
この、段々と臨也に心を開きつつある化け物は、臨也に好意を告げられたら、どんな顔をするのだろう。そんな愉快な実験だった。怒るだろうか、戸惑うだけだろうか。色々と予想は立てたが、実際に静雄が浮かべたのは、そのどれとも違う表情だった。
傷ついて、泣きそうに歪んだ静雄の顔。その瞬間に臨也は気付いた。池袋最強の喧嘩人形が、確かに臨也に恋をしていることに。
愚かな、と嘲笑おうとして――失敗した。
ろくに泣き方も知らなそうな静雄が見せた顔が、あまりに、そうあまりにただの人間のようだったからだ。臨也の愛する、脆く神秘的で無様で美しく醜く、そしていとしい、人間のようだったから。それまで静雄の表情をこっそりと盗み見ていた臨也は、思わず視線を逸らして俯いた。ぐっと体の奥が痛みを訴えた。
思えば、静雄は、臨也が転がり込んでからずっと、まるでただの人間のようだった。臨也の記憶がなかった3日間も、それ以降もずっと。
臨也が笑うと、まるで不思議なものを見るような顔をして、そしてそれから自分も楽しげに笑うようになった。化け物のくせに、人間みたいに、怒り以外の表情を惜しみなく臨也に向けていた。
臨也はその夜、夢を見た。安っぽいありがちなドアの向こう、自身の寝室にいる静雄が、泣いている夢を。
もちろん、静雄が泣くはずもなく、それはただの臨也の勝手な夢だ。次の日、いつもと同じ時間にもそもそと活動を始めた静雄は、この数日間の日課どおり、簡単な食事を用意し、臨也が淹れたカフェオレを飲んでいつもと同じ時間に家を出た。特に何も変わりはしない。だがその日、臨也は静雄の家で一人で仕事をしながら、ただ途方もなく、静雄の帰りばかりを待ち望んでいた。どうしてかは分からない。ただ、静雄の姿を見ていたかった。
そしてその夜、臨也は自身の感情の明確な変化を認めた。
それは、深夜に近い時間帯に臨也が洗面所に入ったときに起こった。そのとき静雄は、洗濯機を回すついでに自身の着ていたシャツも洗おうとしていたようで、半裸で屈んでいた。そして臨也が入った瞬間に、慌てたように、その白い剥き出しの上半身を捩じったのだ。
臨也は気付いて、そして敢えて気付かなかったふりをした。そうだ、臨也は確かに気付いていたのだ。静雄が、既に跡形もない腕の傷を隠そうとしたことに。高校時代に出会った臨也が、静雄の特異体質を嫌悪し侮蔑したことを身をもって知っている静雄は、臨也にその特異体質を知られることを、怖れたのだ。
出会ってからずっと、嫌悪し憎んで、それでも愚かしいほどに静雄ばかりを見てきた。それだけは偽りではない。だから臨也は気付いた。静雄が、この不自然なほどに甘い関係が続くことを望んでいることに。この関係が壊れることを、怖れたことに。
湧き上がったのは、侮蔑でも嫌悪でもなく、圧倒的な、いとしさだった。すべてを投げ捨てて、その白い体を抱きしめたい、と思うほどの。
臨也はそのときに、自身がどこかで間違えたことに気付いた。化け物への愛しさと、苦しみと悲しみとともに。
昨夜は、降り止む気配のない雨が降っていた。その音を遠くに聞きながら臨也は、楽園の名を持つリキュールを飲んでいた。アルコール度数が高く、濃密な味わいに作られたリキュールは本来、ロックには向かない。だが臨也は敢えて、氷でしか薄めずに飲んでいた。
残酷なほどに甘く、痛むほどに喉を灼く楽園。ここにぴったりだな、と思っていたら、その楽園の主が音も立てずに近づいてきた。懐かない猫が、それでも甘える仕草のように、そろりと臨也の隣りに座る。
少しの間、相変わらず毒の多い会話を続けていたら、不意にどうしようもなく、言葉を告げたくなった。
「シズちゃん、好き。好きだよ」
ここに転がり込んで5日目に告げた「好き」は、偽りだったはずだ。少なくとも臨也は、そう思っている。たとえ、出会ってからずっと馬鹿みたいに目で追ってきた存在であったとしても、それは嫌悪でしかありえなかったはずだ。
なのに、今自分の唇から出るこの言葉はどうだろう。こんなにも掠れて、震えている。
「…うるせえ」
静雄の返事はにべもない。だが、静雄は自分では気付いていないのだろうが、その声は普段の彼の声よりずっと小さくて、語尾が震えている。それが哀れで、いとしくて、戯れのように触れるだけのキスをした。
静雄は、何が起こったのかわからない、という顔をしたあとで、すぐに首筋まで赤く染めた。
「…好きだよ」
もう一度だけ、耳もとで言う。吐息で紡いだような、掠れたものになった。途端に、また静雄は、傷ついたような、痛みを抱えた表情をした。
静雄は、臨也に好意の言葉を告げられるたびに、臨也の記憶が戻ってかつてのように侮蔑され嫌悪されることに怯えている。それを感じて、臨也は静雄の表情から逃れるように、背を向けた。
だが、その背に、幻のように優しく甘い体温が重なった。静雄がほんの軽く、背を凭れてきたのだ。
「臨也。もう一回言えよ」
言えばどうせ傷つくくせに、静雄が促す。記憶のある臨也には絶対に聞かせないだろう、甘く熱を持った声だった。
臨也は、とっくに気付いていた。静雄が今、甘えるように背中を預け、好意の言葉を欲するその相手は、この狭い楽園の中で築かれた、静雄を化け物として蔑まない、記憶のない臨也だということに。
記憶を取り戻し、しかしそれを黙して偽っていた今の臨也は、もうとっくに、静雄に望まれる資格を失っていたのだ。
一瞬の沈黙が落ちて、雨音が聞こえてきた。澄んだ、悲しい雨音だった。臨也は楽園の名を持つリキュールを一口呷って、その痛むほどの甘さの余韻を保ちながら、彼が望む言葉を囁いた。