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並盛亭の主人

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数日後。
(ね、寝坊した…!)
普段より1コマ遅いから長く寝られる、と思って油断していた。
このままだと講義に遅れてしまう。
だから必死になって学校へ向かって走っていたのだけれど。
(お腹減った…)
お金が無くて、昨夜から何も口にしていない。
ぐきゅるる、と鳴る腹の音が綱吉から走る体力を徐々に奪い取っていく。
そしてとうとう、その場にしゃがみ込んでしまった。
「うう…」
目と鼻の先の場所には、あの邸。
(空腹で目が回るなんてこと、ホントにあったんだ…)
そんなことをぼんやり思っていると、邸の引き戸が開いて、数日前と同様に青年が姿を現した。
彼の手にはイーゼルと看板用のボード。どうやらこれから開店らしい。
青年が、蹲っている綱吉に気づいた。
「…あ…」
思わず綱吉が声を漏らすと、青年はしばらくこちらを見遣り、にい、と口の端を上げた。
かつかつと大股でこちらに歩み寄ると、むず、と綱吉の襟首を掴んだ。
「え、ええ!?」
「お金は良いよ。入りな」
まるで猫の子を掴むようにして、邸の方へと引きずられる。
いくら綱吉が同年代の人間に比べて小柄で体重が軽いとは言っても、これではあんまりにもあんまりだ。
そのままの状態で、引き戸の向こう側へ足を一歩踏み入れると。
「わ…」
こぢんまりとした、だけど外観に見合う庭の真ん中を、敷石でできた道が通っている。
その端にいくつかプランターが並んでいて、植物が育てられていた。
「へえ……」
すごーい、と小さく綱吉が感嘆の声を上げると、横からずい、小振りの笊を差し出される。
「は?」
「そこに三つ葉があるから、適当に摘んできな」
「はあ…」
指されたプランターには、スーパーの野菜売り場で時々見かける事のある植物が植えられていた。
言われるままに笊を受け取り三つ葉を数本ぷちぷちと摘んで、綱吉は店の中に足を踏み入れる。
「…………」
どうやらこの店は、古民家を改造して作られたものらしい。
淡い照明の下でかちこちと規則正しい音を立てる壁掛け時計、あえて板目を露わにしたテーブルと、同じ色の木材で拵えられた椅子。
和モダン、というのだろうか。
どこかノスタルジックな雰囲気を醸し出す、落ち着いた内装。
座席数は10をいくつか越えた程度。店員が誰もいないところを察するに、青年はこの店の店長で、一人で切り盛りしているようだ。
「ねえ」
青年に声を掛けられて、綱吉ははっとする。
「そこ、座りなよ」
「あ、はい」
三つ葉を載せた笊を受け取った青年が指したのはカウンター、調理台がすぐ目の前に見える席。
上着と背負っていたザックを隣の席に置いて綱吉が腰を下ろすと、青年は奥の冷蔵庫から材料を取り出していく。
「今日は、良い卵が入ったんだ」
ころん、と笊に置かれた白い殻の卵、鶏肉と玉ねぎに、先程綱吉が摘んできた三つ葉。
(うわー…なんか綺麗だ……)
デッサンの授業で散々目にしてきた静物とは比べものにならない、鮮やかさ。
「…君、一人暮らしでしょ」
「へっ」
突然尋ねられて、綱吉はきょとりと琥珀色の瞳を瞬かせた。
「自炊は?してるの?」
「あ……いや、全然です…」
「だろうね」
さもありなん、と言わんばかりに小さく笑った青年は、綱吉の目の前で材料の下準備を始める。


作品名:並盛亭の主人 作家名:新澤やひろ