彼の声がでなくなる話
重い鉄の扉を開いて、懐中電灯で上を照らしてみる。真っ暗でなにも見えない。もともと、火事などのときに煙がはいらないよう、非常階段には窓もついていないのだ。黒く塗りつぶされた空洞が、まっすぐに天に向かて伸びている。
これは、懐中電灯を持っていてもけっこう怖いなと思いつつ、アメリカは階段を一歩踏みしめた。かつんと鉄板が高い悲鳴を上げた。空間にその音が響き、ゆっくりと消えていく。
「イギリスー、いたら足踏みしてみてくれー」
名前を呼んで見る。声は反響して何度か響き、消えてしまった。やはりここでも返事も気配もない。
これは会議室まで行くしかないかと、アメリカは階段を一段一段昇っていく。
会議室はたしか七階だったはずだ。エレベーターでは一瞬だが、階段だと時間がやけにかかる気がする。昇っている途中で気が急いてきて、アメリカは四階の途中から一段飛びで駆け上がった。
懐中電灯で七階と書かれたプレートを確認してから、アメリカはまた重い鉄の扉を開く。ギイと金属がきしむ音がして、扉は問題なく開いた。
廊下を照らしてみるが、やはり見える範囲にイギリスはいないようだ。そんなことはないだろうが、ひとり取り残されたことに焦ってうろうろしているなんてことはないだろうか。もしそうだとしたら、この広い建物の中を探し回らなくてはならなくなる。
それはめんどうだなと呟いて、とにかく会議室へと向かった。
長い、まっすぐな廊下に一定の間隔を空けて設置されている窓から、月明かりがさしこんでいる。見慣れた会議室へと続く廊下だが、こうして電気を消してみるとやけに幻想的に見えた。
イギリスに毒されているなと苦笑いを浮かべつつ、扉が開かれたままになっている会議室へと足を踏み入れる。
「イギリスー?」
声をかけてみると、コツンと机をたたく音がした。
「イギリス、いるのかい?」
また、今度はコンコンと二回、机をたたく音がする。それを頼りに懐中電灯の明かりを向けてみると、自分の席ではない椅子にイギリスがかばんを抱えたままぽつりと座っていた。
見つかった。よかった。見たところ怪我もしていないようだし、ほんとうに無事で安心した。そんな心の声を全部ぐしゃりと握りつぶして、アメリカはできるだけめんどくさそうに聞こえる足取りでイギリスの傍に歩み寄る。
アメリカが近くに来たことでイギリスも椅子から立ち上がり、たたっとこちらに寄って来た。
腕が掴める位置まで来たところでアメリカは立ち止まり、すこし低い位置にあるイギリスの瞳を見おろす。
「きみはほんとに鈍くさいな! どうしてこんなところにいるんだい」
怒鳴りつけると、イギリスはびくりと肩をすくめる。けれどすぐに携帯を取り出し、かちかちと文字を打ち始めた。なにをしているのだろうと見守っていると、しばらくしてからその携帯の液晶画面を突きつけられる。見れば、そこには文章が打たれていた。
「えーと、でる準備をしているあいだにみんながでて行ってしまって、ひとりだけ取り残された。うろうろするわけにもいかないからここで待ってた……って、待ってたのは偉いけど、それならメールでどこにいるかくらい教えてくれたらよかっただろ」
アメリカの言葉に、イギリスは瞳を揺らした。そしてすこしうつむき、きゅうと携帯を握りこむ。
「なに」
自分でも必要以上に冷たい声だなと思いつつも、そう問いかける。イギリスはぐっと唇を噛んでから、またかちかちと文字を打ち始めてこちらに液晶を向けた。
「電気がついたら自分ででようと思ってたって、いつつくかわからないんだぞ。もしそれで朝にでもなったらどうするんだい。泊まる気だったのか」
イギリスはぐっと息を詰め、そしてまた携帯を打とうとする。けれどためらうように数秒固まって、それからそろそろと打ち出しこちらに液晶を向けた。
そこには一言、迷惑にかけたくなかった、と書かれている。
怒りが湧くというよりも、あきれてしまった。ハアとため息をついて肩から力を抜き、額を押さえて上を向く。
「きみねえ、連絡なくいなくなったら探すんだから、迷惑とかそんなの関係ないだろう。現にこうして俺は探しに来たんだぞ」
あきれた色をにじませて言えば、イギリスはなんだか泣き出しそうな顔をして携帯を胸元で握りしめ、固まってしまう。
黙りこまれてしまうと、アメリカにはイギリスがなにを考えているのかまったくわからなくなってしまった。
とにかく泣きだされるのだけは困ると、アメリカは携帯を握っているイギリスの手首をつかむ。驚いたのか眼を見開くイギリスから視線を離し、腕を引いて歩き出した。
「ほら、いつまでもここにいても仕方ないだろう。外で日本とフランスも待ってるし、さっさとでよう」
アメリカの意見に反対する気はないのか、イギリスは腕を引かれるままにアメリカについてくる。廊下をでて、非常階段を目指す。片手でまた重い扉を開いて、イギリスに合わせてゆっくりと階段を降りた。
最後の一段を降りて、扉から外に出る。ここまでくれば安心だと、アメリカは腕を引いて歩きながら半歩後ろにいるイギリスを見た。
窓からさしこむ月明かりの下にいたからか、イギリスの金髪がきらきらと輝いて見えた。それがあまりにも鮮やかだったことに驚いて、思わず足を止めてしまう。
急に立ち止ったことを不信に思ったのか、イギリスがこちらを見た。いつでもすこし潤んでいる緑色の瞳が、こちらに向けられる。
髪の金色よりも鮮明なその色に、ひどく衝撃を受けた。この人の瞳はこんな色をしていただろうかと、遠い記憶をたどる。
けれど今日のこの色ほどの鮮明な色をしているときなどなかったと思い、じっとその瞳を凝視してしまった。
薄い唇が動く。どうした、といわれているとわかった。けれどそんなことよりも、その唇に意識が引きつけられた。
じっと唇を見つめてから、とろとろと甘く輝く緑へと視線を向ける。なんだか唐突に、この瞳はもしかしたら甘いのだろうかという疑問が浮かんだ。
夏祭りというものに連れて行ってもらったときに日本が買ってくれた、ラムネの中に入っていたビー玉のようだった。
どんな味がするのだろう。そんなことを考えながら唇を寄せようとした瞬間、ポケットの中に入れていた携帯がひどい音をたてて着信を告げる。おおげさなほどびくりと反応して、ざっとイギリスから距離を取った。けれど自分が腕を掴んでいるせいで思ったよりも距離を取ることができず、そのことにまた混乱してバッと腕を放す。
不思議そうな、ひどく驚いた顔をしているイギリスから慌てて視線を離して、携帯を取り出した。開いてみればフランスからのメールが届いていて、見つけたからもう外にでるということだけを短く打ち込んで送信する。そうしてまた携帯をもどし、恐る恐るイギリスへと視線を向けた。
彼はきょとりとした顔をしてこちらを見ていた。けれど、なにをされそうだったのか想像もしていないのか、とくに狼狽している様子ではない。
ならば自分ばかりじたじたしていてはかっこ悪いと、アメリカも慌てて表情を取り繕った。そして姿勢をただし、背中を向けて歩き出す。
作品名:彼の声がでなくなる話 作家名:ことは