いまわのきわ
ああ、面白くない!
自分はやはり、おかしい。
そのせいだろう。
こんな馬鹿みたいなへまをして、愛すべき人間がいない廃工場の片隅で死に掛けているのは。
傍に転がっている携帯に必死に手を伸ばすが、ご丁寧にむちゃくちゃに壊されていて、電波は発せそうにない。
何とか身を起こそうとして、体中に全く力が入らない事実に、哂った。
ばかばかしくて笑うしかない。
人間すべてを愛そうとして、
その人間に殺されかけて、こんな廃工場の片隅にころがっているなんて!!
仰向けに転がったまま、穴の開いた天井から覗く澱んだ色の空を見上げ、
嘲笑にもなり切らない吐息を漏らした。
殺しの、あるいは喧嘩のプロだったのだろう。
ぼんやり考え事をしている所を3人がかりで襲われた。
いつも静雄とやりあっているとはいえ、静雄と違って臨也は特に頑丈という訳ではない。
一瞬の隙が、命取りになる。
その結果、血を流し続ける傷口はそのままに、こんなところに転がっている。
あいつらは、どうせこのままなら死ぬだろう、と思ったのだろう。
完全に止めを刺さないとは甘いことだ、と考え、すぐに否定した。
こうやって、じわじわと死ぬまでの時間を与えて、惨めに苦しませようと言うつもりか。
壊した携帯を近くに落としていったのがいい証拠だ。
憎まれてるねぇ、と臨也は哂った。
自分が死に掛けていると言うのに、至上の人間観察者としての臨也は、その事実さえ面白がった。
愛する人間に憎まれて殺されるなんて、俺に似合いの最後じゃないか、と、傷口の痛みを無視して笑おうとして、
ふと、脳裏に、思いつめたような顔でこちらを見る少年の姿がよぎった。
心残りがあるとしたら、あの少年のことだな、と思う。
結局、なぜあれ程に、あの少年の一挙一頭足に苛立ち、拘ってしまったのだろう。
自分のことなのに、それを解析できなかったことだけが心残りだ。
霞み始めた思考の中で、最後に見た少年の顔を思い出していると、
幻聴のような、声が聞こえた。
「いざやさん」
最初、とうとう五感までおかしくなったか、と思った。
だが、ゆっくりとこちらに歩み寄る音が聞こえ、何とか頭の向きだけを変えると、
今まさに脳裏に思い描いていた、頼りない小柄なその姿が、
仰向けになっている臨也の視界に入ってきた。
臨也は目を見開き、唇をゆがめると、
「やあ」
と、まるで駅の近くであったように、いつもどおりに声をかける。
その言葉にびくりと震える帝人。
その反応は見なかった振りをして、言葉を続ける。
「こんな、ところに辿り着くなんて、、帝人君って、エスパー?」
いつものように軽薄な調子で喋っていると、
「あなたはばかです。」
冷たい声音で一刀両断にされた。
「ひどいなぁ。」
その物言いにまた笑う。
「…なにしに、来たんだい、帝人君。
とどめをさすつもりなら、早くやってくれたほうがいいかもしれない。」
正直、君の姿も、もうあまりよく見えないんだ、そう告げても、
帝人はただ無言で、思いつめたような瞳で、ただこちらを見つめていた。
ああ、結局自分は最後まで、この少年の表情を変えることができなかったな、と思う。
硬い表情で俯く帝人の姿をどうすることもできず見つめながら、
自分の中から命が流れ出ていくのを漫然と待つ。
そのとき、唐突に、帝人が口を開いた。
「僕は…恐かった。」
独り言の様に、懺悔するように、語りだした。
「それを認めてしまうことで、僕のすべてが、変わってしまうのが。
僕の”日常”が、日常でなくなってしまうのが。」
臨也が聞いているかどうか、全く気にしていないように、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「だから、逃げた。あなたから、自分の気持ちから。
…最悪の方法で。」
人として、最低な方法で。
そう告げて、しばらく、泣いているのだろうか、と思わせるような沈黙が落ちる。
帝人の表情が気になって、臨也は霞む視界を何とか帝人に合わせようとした。
「でも、もういいんです。」
諦めたような、覚悟を決めたような口調で、帝人は言った。
「あなたは、ここで死んでしまうんですから。」
立ち竦んでいた影が膝をつき、その手が臨也の腕に触れた。
ぴくり、と震える臨也の頬にそっと手を添え、驚きに見開かれた視線をうけとめ、
帝人は、ゆっくりと、上体をかがめた。
微かに触れるだけのキスは、なぜか、帝人の唇のほうが冷たく感じた。
「…ごめんなさい。」
帝人は謝った。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、」
帝人はひたすら謝った。
「み、かど、く…」
臨也は、なぜ、何に対して、それほど謝っているのか問いかけたかった。
けれど、自分の強張った唇はその名前を呼ぶだけで精一杯で。
触れていた腕は離れ、けれど、帝人はただ臨也のそばにうずくまり、壊れたように繰り返した。
ごめんなさい、ごめんなさい、いざやさん、いざやさん、いざやさん、
壊れかけたその少年に、臨也は最後の力を振り絞って、腕を伸ばす。
柔らかな頬に触れるとその少年はびくりと震えた。
濡れた頬を拭おうとして、けれどすぐに力が入らなくなり、腕がずりおちる。
少年はそれをとっさに引きとめ、震える腕に抱きしめた。
意識が遠くなっていく。
だめ、だ。
だって、まだ、僕は、観察したいものがいっぱいある。愉しみたいものがいっぱいある。
目の前で泣き出した子を、もっと、観察し続けないといけない。
その肩を優しく抱いて、涙をぬぐって、大丈夫だよ、と応えてあげないといけない。
いざやさん、いざやさん、
臨也の腕をすがるように抱きしめたまま、その子供はうわごとのように呟き続ける。
そして、最後に、その、禁忌の言葉を、口にした。