隠せぬ鏡面
車は波止場の近くに止まった。夜の海が静かで美しい。静かな波濤とは対照的に、キョウジの心は荒波を立て、ざわついていた。
一縷の望みを抱いていたのだ。もしかしたらレインは本当に自分を、キョウジ・カッシュを愛しているのかもしれないと……。
「レイン、レイン。起きなさい」
こういうときは「兄」の口調に戻ってしまうことに、内心キョウジは苦笑した。ゆっくりとレインのまぶたが開き、キョロキョロと辺りを見回す。
「おはよう」
「あ……寝ちゃったんだ、私。ごめんなさい」
「構わないよ。ちょっと海が見たかったから寄ってみたんだ。出てみよう」
「うん」
二人は、車を出てしばらく無言で海を見ていた。変わらず海は静かだ。ちらり、キョウジはレインを見やる。
隣のレインの儚く美しい横顔、先程の「ドモン」という言葉、いずれ訪れるかもしれない別れに、眼前の海とは真逆にキョウジの心は荒波のごとくざわついた。
――このまま、レインを失いたくない。キョウジの中で激しい情動が息吹を上げた。
レイン、と叫びその薄い肩を力まかせに掴んだ。突然、貪るように、レインにくちびるを押し当てる。舌を入れ、その口内を味わう。唾液が口の端を伝ってもなお強引なキスを止めようとせぬキョウジに、拒否の意思を示すためレインが首を振った。肩を強く押して、ようやくキョウジはレインを解放した。彼女の恐怖の表情にキョウジは怯える。
「ど、どうしたの……? キョウジさん、なんだか変だわ……」
「……ごめん」
「私……何か……嫌なこと、した?」
自分のせいだと思っているレインに、キョウジは胸が痛くなる。責任感の強さから、自責にかられる彼女の姿。それが、キョウジが最も気にかけているレインの姿だ。
――彼女には、笑顔でいてほしい。悩んだり苦しんだりもしたとしても、最後には笑顔になってほしい。
それこそが、キョウジの最も求めるもののはずだった。
だが、いつからかレインそのものを求めるようになっていた。レインのことはドモンに任せると決めていたというのに、強い反発心がキョウジを襲う。
「なんでもないんだ……キミが謝る必要なんて、これっぽっちもないんだよ。悪いのは俺だ。……今日はもう帰ろう。疲れただろう」
「キョウジ……さん……?」
帰り道、二人は無言で帰路についた。
数日後、同じ波止場にキョウジとレインは来ていた。キョウジが話があるというのだ。
「キミとは恋人ではいられない……」
「ど、どうして……?」
「もちろん、キミを嫌いになったわけでも、俺に別の恋人ができたわけでもない。それは誤解しないでくれ。……できれば、このままキミを愛していたかったさ。言い訳みたいに聞こえるけど、本当のことだ」
急な話に、レインは動揺を隠せない顔を浮かべていた。
「キミは……ドモンが忘れられないんだろう?」
その言葉にレインは絶句する。
「もうすぐあいつも帰って来る。あいつもキミが好きだったからな、きっとキミたちは……」
「やめて!」
キョウジの言葉をレインは制止した。
「ドモンが……ドモンが私を好きだなんて限らないじゃない……。あれから七年よ!? もう、忘れられてるわ……」
そう言いながらもレインの瞳が潤んでいた。
「レイン……付き合い出してからキミは、俺に対してどこか一線を引いていたね。多分、『兄』として接した時間が長かったからだろうけれど、ドモンへの申し訳なさもあったんじゃないかと、俺は勝手に思ってる」
考えあぐねた末、レインが沈黙のあと口を開く。
「その……、ドモンが好きなのも、多分本当だと思うけれど、あなたへの愛情も、本当だわ。だから……また前みたいな『兄妹』に戻るなんて、私には……できる自信がない」
「うん……ありがとう。俺も、キミを愛してる。ずっとね。少しずつでいい、また、キミの『兄ちゃん』でいさせてくれないか」
キョウジの胸元に、レインが飛びつく。しゃくり上げるように泣いて、彼の服をきつく掴んでいた。そんなレインの髪の毛を、キョウジはやさしく撫でた。子どものころから、いつもこうやってレインをなだめていたことを思い出し、懐かしく、愛おしく、そして胸に甘い痛みが走った。
そうだ、俺なんか、忘れてしまってくれ。
俺なんか、見ないでくれ。
俺なんか、好きにならないでくれ。
作品名:隠せぬ鏡面 作家名: