南ちゃんではないけれど
スポンジを握っていた手が震え始めて、サンジは洗いかけの皿を流しに置き、水を止めた。うまい具合に洗濯機もピー、と終了の合図を鳴らす。
「俺、明日試合見に行ってもいいかな」
なんてことだ、足まで震えている。
手を拭いてリビングまで歩いていって、それでゾロの顔をじっと見つめて返事を待たなければと思うのに、サンジはシンクに手を付いてじっと立っているだけだ。窓ガラスに映っている自分の顔を見るのがこわい。
「……別に、いいぜ」
――なあ、その答え、どんな顔して言ってんの?
*
試合会場だという球場は車を使っても結構遠くて、不公平だ、なんてサンジはよくわからないままに心の中でぼやいた。前の試合の球場まではゾロの学校から歩いても行ける距離だったから、むしろ公平なのかもしれないが。
試合まではあと1時間近くあるものの、選手たちは客席に入っているのかそれともまた別のところにいるのか、球場前の広場に見慣れたユニフォームは見えなかった。ただ、チケット売り場の前にはなんとなく顔を知っているオバチャンたちがうろうろしている。選手のお母さんがただ。
軽く会釈をしながらも、ゾロの幼馴染ではあれども父兄でもなんでもないサンジは彼女たちにどう挨拶していいのかよくわからなくて、そそくさとチケットを買うと、ゾロたちの試合が始まるまでは球場近くの喫茶店で暇を潰すことにした。知らない学校の試合にはあまり興味が湧かないし、だいいち観客席に入ってゾロやそのチームメイトたちと顔を合わせるのは気まず過ぎる。
「そういや今日GL商の試合だなァ」
「そこの球場でもうすぐだけどよ、うちのテレビでも見られるぜ。そのためにケーブルテレビ導入してんだ」
「よっマスター、さすが脱サラしてこんな辺鄙なとこに店構えてるだけあるわ」
「うるせ」
店内では常連らしき客たちと店主が賑やかに話していて、サンジは躊躇しながらもそそくさと隅の席に座った。店主が言った通り、店の片隅に置かれたテレビには高校野球の模様が映し出されている。
「兄ちゃんも観戦かい?」
「あ、俺は……幼馴染が、次の試合に出るんで」
「へえ、GL商の選手?」
「や、その相手チームです」
思わずサンジが苦笑いすれば、あー、と客たちからも勝手知ったる感じの相槌が返ってきた。GL商というのはどうも甲子園の常連らしく、それで気合が入っているのだとゾロから聞いた覚えがある。この様子だと、下馬評は大きくGL商に傾いているらしい。
「ブレンドお願いします」
「はい、ブレンドひとつね。幼馴染君は何年生?」
「3年で、今年引退なんですよ」
「ほー、どこ守ってるの?」
「サードで、4番を……」
多分、と心の中で付け加えながら、サンジは気まずくグラスに浮いた水滴を弄った。実はサンジは、あまり野球に興味がない。
「そりゃすげえ。長島だ」
「俺たちも応援するぜ」
「え、いいんですか」
「だって俺たち別にどこ贔屓ってわけじゃねえもの。つっても、ここでテレビ見ながらだけどな」
「紫外線は老体にこたえるからなァ」
「それまでにコーヒー以外のものも頼めよ」
ハハ、と笑うオッサンたちに、少し緊張がほぐれる。
「皆さん、野球好きなんすね」
「やー、普段は巨人一筋だけどよう。でも地元の試合だからなァ。未来のプロ選手がいるかもしれねえって思うとなんか見ちまうんだよな」
「あ、俺俺! 俺、横浜の……なんつったっけ、GL出身の選手がホームラン打った試合、球場で見てたぜ」
「名前も思い出せねえくせに偉そうに言いやがって。なあ、兄ちゃんの幼馴染がプロ入りしたらサインここに飾らせてくれよ」
「ハハ……」
オッサンたちと一緒に笑いながらも、なんとなく罪悪感が胸を襲う。すいません、恋人目当てで試合見てます。
*
試合開始ギリギリになって球場に入れば、3塁側には既にオバチャンたちが陣取ってぺちゃくちゃとおしゃべりをしていた。またしても軽く会釈をしてそのまま彼女たちと離れたバックネット裏に腰を下ろす。相手チームが強豪ということもあってか、前までの試合とは違い客席には結構人が入っていた。
こんなにたくさんの人たちの前で、ゾロはバッターボックスに入るのか。
「ね、ゾロ君出るんだよね」
「出るでしょ、4番だもん」
ゾロの名前が出て思わずそちらに目を向ければ、制服姿の一団が3塁側の席の前列に見えた。しかも、真ん中には大太鼓やら手作りらしきプレートなども見える。もしかして、噂に聞く応援団というやつだろうか。これまでは見たことがなかったから油断していた。別にだからどうというわけではないのに一気に緊張が背筋を襲い、無性に何かに謝りたくなる。
そんなことを考えているうちにグラウンドでノックをしていた選手たちがベンチに戻っていく。GL商の選手たちのようだけれど、ゾロたちの練習はもう終わってしまったのだろうか。
『ただいまより、県立霜月高校対GL商業高校の試合を開始いたします』
ウウウー、というサイレンがまるで突風のように球場を駆け巡っていく。顔を見合わせ何か話している他の観客たちの中で、サンジはひとり、ぼんやりと遠く真正面にそびえるバックスクリーンを見つめた。
“ロロノア”。そのそっけない4文字に、心臓がうるさく悲鳴を上げる。
『1回の表霜月高校の攻撃、1番センター、モンキー・D・ルフィ君』
しゃーす! と観客席までよく聞こえる声を張り上げた選手には、なんとなく見覚えがあった。確か、先の試合でたくさんヒットを打っていた選手だ。ゾロが時々こぼす短い世間話の中でも名前を聞いたことがある気がする。
相手のピッチャーの背番号は11だった。高校野球で一番優秀なピッチャーは1番を付けるという話だから、もしかしなくても霜月は舐められているのだろうか。
「かっせかっせルフィ! かっせかっせルフィ! かっとばせ、ルフィ!」
突然聞こえた歓声に思わず顔を上げれば、例の制服の集団がわいわいと立ち上がり叫んでいるのだった。しかも、トランペットがどこか聞き覚えあるメロディーを奏ではじめる。タッチ?
「ットライク!」
応援団に気を取られているうちにピッチャーは第一球を投げ終えていて、バックスクリーンの掲示板の『S』のところにランプがひとつ点いた。ストライクが3つで、アウト。ボールが4つで、フォアボール。サンジの感覚では単純にストライク=駄目、となっているのだが、応援団の盛り上がりを見ているとそれはもしかして間違いなのでは、と小さな不安が頭をよぎった。
次の球はボールで、その次は、バットは振ったけれど当たらなくてストライク。
三球目――
(あっ)
カキン、と音がしてやった、と思わず声を上げそうになったが、応援団たちから聞こえたのは落胆のため息だった。ボールは守備の選手にキャッチされ、1塁に送球。アウト、という声が聞こえる。打ったからといって塁に進めるわけではないとサンジが知ったのはわりと最近のことだ。
結局ほとんど同じようにして2番、3番の選手もアウトになり、4番のゾロがバッターボックスに立つことはないまま1回の表が終わった。
「あれ、サンジ?」
作品名:南ちゃんではないけれど 作家名:ちよ子