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あの城には河童が棲むというのだが。

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 振り返った椿の手元の皿が、一瞬踊ってがちゃりと音を立てて、かろうじて戻った。
「あっぶねえ!」
 赤崎が思わず口に出すと、もう一度、椿の皿は踊った。
「…わっ!すいません!」
「大丈夫だ。落ち着け」
「ウ、ウス!…お、王子ならさっき…」
 懸命に皿を抱えなおしながら椿が言った。
「俺とパッカ君と一緒にこれ食べてて…」





「バッキー」
 クラブハウスの横、階段がある出入り口とは建物の反対側を歩いていた椿は王子の声がした方向に顔を上げたのだった。二階のベランダから王子が椿に手を振った、と思うと、その指が三つを示した。
「カレーを三皿。今すぐにね」 
 目を剥いたが、ウ、ウィース!と叫んで、即座に椿はダッシュした。
 そして黒田と赤崎の熾烈な争いのサイドをびくびくしながら通り抜けてスギに白飯を盛ってもらい、カレーを受け取って走り、階段を駆け上った先に王子は扉の前に立っていた。 
「待ってたよバッキー。早かったね」
 まるで獲物を捕ってきた猟犬に向けるねぎらいの顔だった。いいこだね、とペットを撫でる時のような表情と似てるようだけれど違う。その奉仕を当然として享受する主人の顔だ。でも、こんな時の王子の口元にわずかに浮かぶ、その満足した時の優しげに見える微笑がなくても椿の心に叛意は起こらなかっただろう。
 「王子の犬」。扱いはそれで構わなかった。
ただ、飼い犬にするように、王子は椿の頭まで撫でたりはしない。それでも椿は時々、王子の手がいつか自分に置かれたりするんじゃないかと思う時があった。
 あのすんなりした指を持つ手の感触をなんとなく予想することが。
 王子は扉を開けて、椿を招いた。三枚の皿を持ったまま椿が入ると、王子は扉を閉じて、椿から二皿を受けとった。
 バッキーも座りなよ、と王子が言うので、びっくりして椿は、はいっと声を上擦らせた。
 そして部屋の中を改めてと見渡すと、ソファに座る先客がいた。
「あ、パッカ君」
 椿の方に向いたパッカ君は軽く緑色の手を上げた。
 思わぬところにいるマスコットを見て、椿は、パッカ君休憩なのかな、外に出たらいつも子供に乗っかられたりするからきっと大変なんだよな、と思いながら、ぺこりと頭を下げ返した。
「バッキーはパッカの隣に座りたまえ」
 王子がそう言って、自分はパッカ君の向かいのソファに席を取り、テーブルにカレーを置いた。
 椿は言われた通りにパッカ君の隣に座る。
 前に座る王子の方を見たら、視線に気付いた王子の黒い瞳が椿に向けられた。まるで弾き返されたように少し緊張した椿に王子は鷹揚に笑って「食べていくといいよ」と言った。犬だとしたら「待て」を解かれたみたいだった。
 気恥ずかしくなって、椿は皿とスプーンを抱えた。
 大体、間に置かれたテーブルは応接用のために脚が低すぎて、そうして食べた方が椿には都合が良かった。顔を隠すようにして、カレーを頬張って、ちょっと一息つくと、隣のパッカ君が水の入ったコップを差し出してくれた。
「あ、ありがとう…っ」
 受け取ると、パッカ君はこくんと大きな頭を傾ける。
 その向かいに座る王子は音も立てずスプーンでカレーを掬って口に運んでいた。使い勝手の悪いテーブルのおかげで、皿は王子の膝元に手を添えられて置かれている。
 姿勢はすっと伸ばされているが、無駄なところがなく、自然で寛いだ空気があった。椿の目の中で、王子だけ切り取られて、一枚の絵のようだった。
 王子が食事しているところをそれまで椿は見たことがなかった。水を飲んでいるところなら見たことがある。けれども、食べ物を口にするところを初めて見た。しかも自分が食べているのと同じものだ。王子の口元に触れている銀色のスプーンだって同じクラブハウスの食堂のもののはずだ。
 ああ、王子もカレー食べたりするんだなあと椿はぼんやりと思った。伏せられたように見える睫毛の影に椿は見入っていた。長い睫毛だなあと思っていた。そしてまた、貴族ってこんな食べ方するんだろうなあとそれしか頭の中で言葉が出なくなっていたら、王子は銀のスプーンでカレーを掬い、それを自分の口元に再び近づける前に、椿の方に目を向けずに言った。
「水をこぼしてるよ、バッキー」
「え…!?あ、わ…!」
 慌てて椿が自分を顧みると、まっすぐ持ったはずのコップが傾いていた。拭く物を探す椿にパッカ君が緑色の大きな手でタオルを差し出した。
 この間にも王子はいとも優雅に咀嚼し、椿があちらこちらを拭き回っているうちにスプーンを置いた。
「わっ、パッカ君、これタオマフだよ!使わせちゃって…ごめん」
 大きな頭がふるふると揺れる。手でジェスチャーする。王子がパッカの声を代弁してくれた。
「後で乾かせばいいって」
 それから王子はソファに腰掛けたまま「あと、バッキー、口の端についてるよ」とその手でナプキンを持ち上げた。
 おいで、という空気だった。
 椿の身体が床に跪いたまま固まった。
「え、え…!?」
「ほら」
 感情の読めないあの表情で、ジーノが椿を来いと促す。それは命令だ。返答は全てイエス。従わないという例外は許されない。
 心臓が飛び出るような鼓動と手に汗が滲むのを感じながら、椿はゆっくりと立ち上がり、テーブルに手をついて王子の方に身を乗り出した。
 王子からは近づいてくれない。
「もっとだよ、バッキー」
「は、はい…!」
 震えてへたり込みそうだ。さらに椿は身を乗り出した。視界いっぱいに王子が広がる。
 やっぱり睫毛長い。鼻高い。なに考えているのかわからないし、それに…
 王子の片手が震える椿の顎に添えられた。持ち上げる。緊張して発火しそうに感じる体内の熱さにその指がひんやりと冷たくて気持ちいい。
「バランスが弱いね。あんまり揺れてたら手元が狂ってしまうよ。別にボクが困るわけじゃないけどね」
「ウ…ウスッ!すいません!」
 思わず椿は目を固く閉じた。ぎゅっと汗が搾れそうな気がした。
 王子の手のナプキンが椿の口元を軽く撫でる。一度、二度。それは瞬く間の時間だったが、椿は本当に犬になった心地がしていた。ご主人様にグルーミングをされている犬だ。優しくされてすごく気持ちがいい。頭が緊張を軽く行き過ぎてぼうっとする。 
 そして三度目で椿の手はあろうことか汗で滑った。
 前のめりになり、王子の方に頭から倒れこんでいく。
 わっと反射的に目を開けて、ああ、このままじゃ俺、王子の上に…ぶつかって王子が痛くありませんようにと椿は叱られるのを覚悟した。    
 けれども、ユニフォームごと背中を引っ張られて、椿の身体は途中で止まった。すると、そのまま掴まれて持ち上げられ、クレーンゲームの景品のようにテーブルの上で横に移動していった椿の身体はすとんと落とされて王子にではなく床に倒れこんだ。顔も少し打った。
「わっ!」
 たいして痛くはなかったが、びっくりしたついでに立ち上がった。まだ手にナプキンを持ったまま、王子はそんな椿の顔を見てくすくすと声を立てて明るく笑った。
「君の足はいつでも早いね、バッキー」
「は、はい…どうも…」
 立ち尽くす椿に王子は座るように促して、ポットを手にとり、腕を伸ばして椿のコップへ新しい水を注いでくれた。