クラウス オールマイティ
押し付けられた鉢植えの重さとは違うなにかでよろけそうになりながらも、一緒にNATO情報部に向かう。
「気恥ずかしく思わないのはキザな泥棒くらいですよ」
「伯爵は…そうですね」
今日は少佐の誕生日なのだ。きっと伯爵も来るだろう。薔薇とかを持つのが確かに不自然じゃない人のような気がする。G先輩は喜ぶだろうな。少佐は怒るだろうけれども。
Zはぽつりと、今日一日ガラス越しに部内を眺めて暮らさねばならないかのように呟いた。
「にぎやかになりそうですね」
そのガラスが派手に割られて引っ張り込まれるとは考えることもなく。
その朝一番に少佐が訪れたのは部長のオフィスだった。昨夜のことはたとえ憶えていなくても言ってやらねばならない。
部長室に入る前に秘書に挨拶をして、少佐は絶句する羽目になった。
「部長は昨日の昼からパリに出張ですわ。今日の夕方の便で戻る予定です」
「…確かですか」
「ええ、なにかありましたか?」
少佐の鉄面皮の下にあるわずかな動揺を慮って彼女は問いかけたが、少佐は
「いや、予定を聞きたかっただけですよ」
と、あえて流した。
パリ。では昨夜現れたのは本当に部長とは違ったのか。
部長そっくりのおかしな中年親父か。
去り際に少佐は一度呼び止められた。
「お誕生日おめでとう」
上品な包みに、にっこりと、まるで励ますような笑みが添えられた。
「これは…ありがとうございます」
その不意を突かれた顔も、おそらくは彼女の予想のうちだ。
もらった包みを手に、情報部に向かう廊下で少佐は昨夜のやりとりを思い出していた。
『君に一日限りの贈り物をしに来たのだよ』
『君の願いはなんでも叶ってしまうのだ』
『明日は上から見守っておるからな。健闘を祈るぞ』
思わず上を見上げた。天井に太った中年親父が張り付いていたら、ぞっとするというよりは、よくそこまで登れたと感心してしまうだろう。もちろん、いなかった。
(上といったのは、まあ、たとえだよ少佐)
空耳か。
少佐は足を早めた。
(まったく頑固な男だのう)
廊下の角を曲がった時、突然、郵便物が大量に載ったワゴンが目に飛び込んできた。避けようとすると、向こうも気を使い、反射的に同じほうへ動いてしまった。
ワゴンを押していた女子職員が、きゃと小さく悲鳴を上げた。ぶつかり、ワゴンごと転倒しかける。少佐は足を大きく踏み出して、彼女が横倒しになるワゴンの下敷きになるところから引き寄せた。
ワゴンは大きく揺れて、載せていた小包がずるずると雪崩を起こしかけていた。
(くそ!止まっておけ!)
少佐が睨む。すると、斜塔となった積み荷は突然ぴたりと動きを止めた。
「ああ、よかった」
女子職員はほっと息をついた。
「散らばるかと思いましたわ。せっかく整理したばかりなのに」
少佐がとっさに離した包みを拾い上げて、埃をはらう。
斜めになった積荷の形を直してやりながら少佐は考えた。
(もし、本当なら…)
『ただし、この世界のあらゆる物事は常に一定の比率が守られなければならない』
…どこかにこのしわ寄せが来るはずだ。
(もちろんだよ)
うるさい、と少佐は天井を睨んだ。いや、相手は天上なのか。
その時、廊下の向こうから取り合わせの珍しい二人組を見つけた。一人は部外者だ。SISのチャールズ・ロレンス。やはり現れた。
そして、部下Z。なにやら大きな植物の入った鉢を持っている。ロレンスに押し付けられたに違いない。足取りが多少もたついていた。
「Z君頑張りなさい。ゴールはすぐそこですよ!声援を送ります。フレーフレー」
「なんだか…だんだん重くなってきて…ロレンスさん、一緒に持ってくれませんか」
「私はティーカップより重いもの持ったことないんですが」
「さっき持ってたじゃないですか…」
「ははは!これは一本取られてしまいましたな」
彼らの会話は廊下によく響いた。柱の影に少佐はさりげなく身を隠して様子を伺う。
もったいぶったロレンスは胸に片手を当てて、よろしいでしょう、と言い置いた。
「Z君の為、このチャールズ・ロレンスも一肌脱ぎましょう」
「ええ、お願いします…ロレンスさんのですけど」
「フッひいては盟友のため…」
とっとと持ってやれ、と蹴りだしたい気持ちになりながら少佐は観察した。Zが抱えていた手の位置をずらして、ロレンスがそこに手を掛けた。そのときだった。
「あ!」
汗で滑ったのか、Zが鉢を支えきれずに手放した。ロレンスの足の先にめり込む。
直後にロレンスの声にならない悲鳴が聞こえた。
少佐は腕を組みながら思わず声に出して頷いた。
「Z、よくやった」
(あれが一応しわ寄せなんだが…)
上からの声は無視してやった。
Zは慌てて鉢を置くと、転がるロレンスに駆け寄った。
「すいません…!」
「うう、もう歩けなくなるかもしれせんっ…軽やかにステップを踏んで額の髪をなびかせながら盟友に会いに来る回数も減ることでしょう…」
来るな、と少佐は思った。
「医務室に行きましょう、ロレンスさん。僕が運びますから」
ロレンスの腕を自分の肩に回して、Zは立ち上がろうとしたが、ロレンスの悲鳴が上がった。
「足を引きずって痛いですZ君!」
「…わかりました、こうしましょう」
ロレンスを再び床に横たえて、Zは屈みこみ、その腕をロレンスの腰近くと膝裏に入れたかと思うと、ひょいっとロレンスの身体を抱え上げて立ち上がった。
ロレンスはああっとか細く驚きの声を上げた。
「平均よりしなやかな細身の私ですが男ですので重いはずですよZ君」
「ええ、重いですね」
抱えなおしながらZが言った。医務室への近道を考えている。
ロレンスは震える声でZに訊いた。
「落とされてしまいそうで不安です…しっかり掴まっていていいですか…?」
「どうぞ」
ロレンスの手はZの広い肩にぎゅっと強く絡みついた。Zは苦笑する。
「落としませんよ、大丈夫ですから…」
「はい…」
少佐が潜んでいるのには結局ふたりは気付かずに、Zは背を向けて医務室へと歩き始めた。
「…」
Zの肩越しに見えたロレンスの頬が染まっていたような気がするのは怪我のせいだと思うことにした。
放置されたカトレアの鉢植えを仕方なく抱えて、少佐は再び情報部に急いだ。
Zは遅刻扱いとする。
「A、伯爵は何時くらいに来そうだって?」
情報部内のスケジュールボードの上にある時計を見ながら、BはAに聞いた。Aときたら朝から真面目にデータ整理をしている。
モニターを見たまま、キィを打つ速度を緩めずにAは首を振った。
「わからない。でも昨日のメールによると近くに来てる」
「じゃあ早目に仕事片付けないとなあ」
「少佐の雷が落ちないうちにな」
Aはこの日のために一週間前から少しづつ1日の仕事量を増やして、前倒しを計っていた。お祭り騒ぎで1日を無駄にしたら、あとでしわ寄せがやってくるからだ。
メールが着信する。
同時に少佐の足音が外の廊下に響くのをAは察知した。モニターから顔を上げて、座ったまま部内を振り返る。
「G、少佐が来たよ」
教えてやると、Gはうれしそうな声を上げてスタンバイするわとドアの方に近づいた。
作品名:クラウス オールマイティ 作家名:bon