クラウス オールマイティ
耳をそばだてて、Aにウィンクを返す。間違いなく少佐のようだという合図だ。
「ぼくは間違ったことないよ」とAは、G以外慌てて席に着く部下たちを眺めながらざっと出席を確認する。Zは間の悪いことに遅刻だ。
足音は情報部の前で止まった。ドアが開く。
Gがプレゼントの包みを胸に抱きながら、その瞬間を待っていたとばかりに飛び出した。
ハートにはちみつをかけたような声で挨拶をする。もちろん少佐がいやな顔になる声音だ。
「おはようございますっ少…さ?」
しかし、ドアを潜り抜けてきたのは少佐ではなかった。なにやら巨大な植物がGの笑顔に影を投げかけて、Gは笑顔のまま固まった。
迫ってきた物体にGは思い切りぶつかってよろけた。ちょうどそこにいたらしいDが受け止めて後ろに倒れこむ。そのまた後ろにいたBは慌てて逃げた。
植物はよく見るとカトレアの鉢植えだ。
それが重い音を立てて床に置かれると、その後ろからやっと少佐が顔を出した。しかめつらで。
「G君は相手を見てから飛び出すように。A、Zは遅刻だ」
Aは粛々と出勤記録のZの欄に印をつけた。やっぱり間の悪い。
「諸君」
少佐はひとつ咳払いをしてから部下のデスクの並びを歩いた。
「おれは今日、諸君らが真面目にデスクワークに励んでくれることを望んでいる。業務外のメールはもっての外だ。G、今日は部長からのメールは来ないぞ」
Gは大きな瞳をぱちくりさせた。
「B、間食を慎むように」
Bは焦って時計を見た。昼までの時間を計算する。
その他特に言うことがないAを除いて、部下に一言ずつ要望を述べた後、少佐は自分の席に着いた。
すると、少佐の言葉は驚くべき効果を発揮した。
皆静かに仕事に打ち込みはじめたのだ。Bは机においてある菓子とケーキを片付け始めた。涙ながらにお別れを言っている。
Aは呆然と口を開けて、情報部内を眺めた。
皆どうしたのだろう?とAは思った。
なにか悪魔的な力が働いてでもいるようだ…!と思いかけ、あれ?普通じゃないか?となんだか混乱してきた。
この日は騒がしくなるはずだったのだ。
代わりになにやら隣の経理部が騒がしい。ここがやけに静かなせいだろうか。
なにやら不思議な気分でAはストンと自分の席に着いた。しかしあの大きなカトレアの鉢植えはどうしたんだろう。Zはいつ来るんだろうか。
そして…
「A君」
「は、はい!」
デスクから少佐に呼びかけられて、Aは背筋を伸ばした。
「どうかしたかね?」
「いえ!YKM機構の調査をまとめ終わりましたのであとで提出します!」
「ああ、ご苦労」
少佐はわずかに目を丸くした。
心地よい静けさだと少佐は部内を自分の席から眺めた。退屈なデスクワークがはかどっていく。
これが望みの結果だというなら粋な計らいだ。
まあ、今日の騒ぎの元になるのは決まっているのだが。
おちゃらけロレンスに、部下Gに、そして、今はまだ現れていない…――――――――
ひらひらと、上から何か赤いものが降ってきた。少佐の手元に落ちる。
花片だ。
はっと気付いて、顔を上げると飛びのく間もなかった。白い手を掴み上げようとしても遅い。
薔薇が降ってくる。しかも…大量に!
「このっ…!エロイカ!」
薔薇のシャワーの中で少佐は怒鳴った。
捕まえる手をかわそうと素早く身を引く泥棒を追いかけて立ち上げる。
まだ薔薇の花びらが舞い散る中で、伯爵は少佐に向かってにっこり笑いかけた。
「エロイカより愛をこめて…少佐、誕生日おめでとう」
少佐のデスク周りに散らされた薔薇の嵐の跡を見て、情報部内は騒然となった。
「今日の掃除当番って誰だ?」
誰かがそう呟いた時、タイミングを計ったかのようにドアが開いて、遅刻の新米が入ってきた。
「すいません…!」
「Z。」
「気の毒に…」
「え?」
Zが流れについていけずに、伯爵を捕まえようと追いかける少佐と、話し込んでいる先輩たちを見比べて戸惑っていると、少佐から部下へ鋭い声が飛んだ。
「散らかした奴に片付けさせる!」
「今日一日は私が贈った薔薇の中で仕事してくれよ、少佐」
伯爵は笑って「シャワーにするために年の分より多い薔薇にしたんだよ」と言いながら、追撃の手をかわした。
Gがそれを見ながら、どっちを応援するべきなのかと海より深い悩みで両手を胸の前で組む。
まったくいつもの5月15日だ。
姿を現したボーナム君に挨拶をしていたAがZに気がつくと、今日はどうしたのかと遅刻の理由を聞いてきた。
「ロレンスさんを医務室に運んだんです」
「おつかれ」
理由を話すとAは出勤表のZの欄を2重線で遅刻を消した。
「その分じゃロレンスもすぐ来るだろうな」
「ええ、異常はないようでした」
「やっぱりいつもの誕生日だ」
Aはため息と共にそう言ったが、それは不可解なことが解けたかのような安堵があった。自分がいない間になにがあったのかと、Zが疑問に思った途端、伯爵が突然目の前に現れた。
「やあZ君、元気にしてた?」
首元に手を回されて、Zは無言で目を見開いた。
「え、はい、ほどほどには…」
Zが自分でもよくわからないうちにそう答えると、「それはよかった」と伯爵の瞳に楽しげな光がきらめいた。
首元に回した手で、伯爵はZを、まるでダンスのステップを踏ませるように動かす。
すると、背後からすぐ少佐の声が低く響くのをZは聞いた。
「…おい、Zを離せ」
「ノーと言ったら?」
伯爵が答える。
お互いの攻防にZを壁にしているのだ。Zは青ざめた。
「少佐、Z君に私を捕まえる命令はいけないよ。彼は私の人質なんだから」
「え…?」
戸惑うZへ伯爵は軽やかに笑って、Zの頭を引き寄せて耳打ちする。
「君にキスぐらいするかもしれない」
「それは…困りますね…」
鼻先が金色の巻き毛を掠めた。柔らかくてくすぐったい。
背後の上司の噴火する前の火山のような視線と、動揺しながら見守る先輩(G先輩は違う気がするけれど)の視線がますますZを動けなくした。
まったく楽しくて仕方がないといった伯爵の表情をZの肩越しに見据えながら、少佐はふつふつと血が沸騰してゆくのを感じた。
まさしくこいつが騒動の元凶だ、いつも。
だが今日は違う。
思い通りになどさせやしない。
もし万能の力だというのなら容易いはずだ。
少佐は言った。
「おれに向かって愛だの恋だのいう奴はいらん!迷惑だ!」
(では願いを受け付けよう)
直後、部屋の中の窓が全開した。
激しい風が一瞬のうちに情報部内を過ぎ去って、少佐以外は皆わけもわからず身を伏せた。
薔薇が風にさらわれて窓の外に消える。
風が去り、身を起こすと、皆直前の記憶を失って周りを見回した。
「大丈夫ですか?」
一緒に吹き飛ばされて倒れこんだ伯爵を、Zはどうしてこんなことになっているのかわからないまま揺り起こした。
「うん…」
顔にかかった巻き毛をかき上げて、伯爵は額に手を当てる。他の部下達も起きだした。
少佐一人がその場に立ち、伯爵を見ていた。願いの効果を。結末を。
「ああ、Z君…君は?」
伯爵がZに尋ねた。
「僕はなんともないです」
「そうか…良かった」
作品名:クラウス オールマイティ 作家名:bon