ライナスの毛布と愛着理論
耳元で聞こえる声と、両肩に圧し掛かる重さを覚えて千馗は軽く顎を上げた。少し首を右に傾けると、べたりと背中に張り付いた壇燈治の髪の先がこそこそと頬を擽る。圧し掛かる身体の重さを足を踏ん張って巧く散らしながら、千馗は拗ねたように唇を尖らせている燈治の頤を軽く頭突きで小突いた。
「携帯、見つかったか?」
「おう。入ってすぐのとこに落ちてた」
ごちんと顎を突き上げられ、悪い悪い、と言って燈治が苦笑する。
先刻まで彼がこの場に居なかったのは、洞から出る際に携帯電話が無い事に気付いたが故だ。普段であれば燈治一人を洞の中に残すことは無いのだが、生憎と既に義王と千馗は洞から出た後で、殿を務める燈治だけが僅かに遅れて洞の中に残っていた。探しに行こうか、と千馗も提案したのだが、燈治はいいよ、先に外に出ていろと言って洞の中に入っていったのだ。多分その辺にあるから――と地上と地下の境界線である薄暗がりから聞こえた声に、千馗も嗚呼、そう言えば洞に入った直後に家から電話がかかって来たと言って、燈治が少し離れたところへ歩いていったことを思い出す。恐らくはその時にポケットに入れそびれて落としたまま、探索を開始してしまったのだろう。洞は降りたすぐ其処の空間が広いホール状になっていて、その部屋であれば隠人が出る心配も無い。他の部屋に行くようなら言って、と千馗が告げたのは十分ほど前のことだっただろうか。
無事に発見されたのだろう燈治の携帯は、千馗の肩の上から伸びた彼の手の中に納まっている。所々に傷がついて汚れているのは、運悪く石の上にでも落としたからだろうか。
「奥で落とさなくて良かったな」
「嗚呼、全くだ。・・・・つか、奥で落としてたら流石に探しに行こうとも思わねぇな」
「多分、見つからないぞ」
「だよなぁ」
幾度と無く潜っている洞であるとは言え、何処に落としたのかも定かではない携帯電話を探す為に歩き回るのは、流石に少々危険度が高過ぎる。こっちの都合などお構いなしに隠人は襲ってくるだろうし、札を使った仕掛けの幾つかは、其処を通る度毎に手間をかけさせてくれる。無論、燈治一人で踏破することは無理なので千馗が同行――と言うより千馗に燈治が同行する他にない。ああよかった、と安堵の溜息を零す燈治にしてみれば、まだ自力で探せる範囲に携帯電話が落ちていたことは不幸中の幸い以外の何物でもなかったのだろう。
彼は、自分のことで誰かの手を煩わすことを由としない性質だから。
「・・・・で、だ」
「うん?」
燈治の声が低く沈んだ、と気付くと同時、千馗の背中にずしりとした重みがかかる。恐らくは背中に張り付いている燈治が、己の力で体重を支えることを放棄したのだ。小柄な千馗に比べ、燈治は身長も高ければ胸板も厚い。その身体が容赦なく圧し掛かる重さに、千馗は思わず小さな悲鳴を漏らした。
「ちょ、重い重い重い!」
10センチ以上の身長差は容赦なく圧し掛かり、千馗を押し潰そうとする。仰向いていた首は俯かざるを得ず、重さに耐える為に燈治の身体を背負うように前屈みになれば、肩の上から伸びていた腕が千馗の身体を抱き込んだ。
「え?」
「さっき、何してた?」
「へ、え? 何って、」
別に何も、と言いかけた千馗の顎を、空いた燈治の片手が掴む。同時に背中へと圧し掛かっていた重さが消えたものの、突然の解放に驚いた千馗はバランスを崩して逆に燈治の胸元へと背中を打ち付ける羽目になった。
「とう、」
何がなんだかわからずに足元をふらつかせる千馗の言葉を遮るように、顎を掴む燈治の手に力が篭る。仰け反るような勢いで無理矢理顔を上げさせられて、千馗の首筋には鈍い痛みが走ったが、上げかけた悲鳴は声になるよりも早く、燈治の唇に吸い取られて、消えた。
「ん、・・・・・・んん、ぅ」
言葉を吐きかけていた唇の透き間に舌を突っ込まれ、抗う間も無く口の中を掻き回される。思わず逃げを打つように身を捩りはしたものの、燈治の腕は千馗の身体を抱き込んでいて離してはくれず、逆に抗った罰だと言わんばかりに引きずり出された舌を痛むほどに吸われた。口の中はどちらのものともつかない唾液が混じり合い、燈治が舌を動かし唇を吸う度に濡れた音を立てている。頭がぼうっと熱く霞んでいくのは、深過ぎる口吻けに巧く息を継げずに酸欠に陥りかけているから、否か。
余りの息苦しさに耐え兼ねて、千馗は口の中に溜まった唾液を喉を鳴らして嚥下する。ごく、と驚くほど大きな音を立てて鳴った喉の浅ましさに首筋が熱くなったが、漸く満足したのか、ゆっくりと燈治の唇は離れていった。
窒息寸前で解放された千馗は必死に喉を喘がせて呼吸を継ぎながら、焦点の合わない双眸で間近に迫る燈治の顔を凝視する。ぼんやりと滲んで見える燈治の顔は不貞腐れているようでもあり、拗ねているようでもあり、してやったりと笑んでいるようにも見える複雑なもので、終ぞ見たことのない彼の表情に千馗はぎくりと身体を竦ませた。
怒っているのか、と脳裏を掠めた言葉を舐め取るように、燈治の舌先が千馗の唇をべろりと舐める。或いは名残を惜しむようなその仕草に肩を竦めると、燈治はにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「消毒、しないとな」
「・・・・・・・・・・・・見てた、のか」
「見てたっつうか、見えたんだよ」
「――――」
何事も無かったかのように呟かれた言葉に、逆に千馗の頬に血が上る。
まさか見られていたとは思わなかった、――燈治が洞を出るのはもう少し後になるだろうと思ったからこそ、義王に対してあんな事が出来たのだ、けれど。
恥ずかしいやら情けないやら申し訳ないやらで、千馗はその場にへたり込む。ぺたんと地面に座り込むと、正面に回った燈治もまた地面に膝を突いて千馗の顔を覗き込んだ。
いっそその顔に怒りの色が現れていれば、言い訳をすることも出来たのかも知れない。学校の屋上で燈治とキスをしてから、今に到るまで何度か似たようなことを繰り返した。それについて、互いの感情を確かめ合ったことは無かったが――取り敢えず、自分のしていることが不義理であると言う自覚が千馗にはあった。
あったのだ、けれど。
「・・・・燈治、最近性格悪い」
「そうか?」
思わず恨み言を零せば、燈治はいつもと変わらぬ苦笑染みた笑みに頬を歪める。悪びれた様子は全く無く、況してや千馗の行為を咎める事もしない。否、燈治にしてみれば先刻のキスで総てが帳消しにされたのかもしれないが――それにしても消毒と言う言い分は、義王が可哀想だと漠然と思う――余りにも平然としている燈治の様子に、釈然としないものを感じてしまうのもまた事実だ。
燈治が何を考えているのか、よくわからない。
そして、自分が何をどうしたいのかも。
「千馗」
名を呼ばれて顔を上げれば、今度は額にひとつ、頬にひとつ、柔らかく唇を落とされる。慰めるような、宥めるようなその優しい仕草に双眸を眇めていると、燈治は小さく肩を竦めた。
「欲しいものは奪えばいい、ってのはあいつの理屈だけどな。俺も、お前を奪われる訳にはいかないんだよ」
「え」
――それは、つまり。
作品名:ライナスの毛布と愛着理論 作家名:柘榴