グーテ・ライゼ!
馬の次は人間だと薬屋の用意した食事はお世辞にも客向けのものではなく、プ
ロイセンはちらりとこの国の最高権力者を盗み見た。
幸いフリードリヒは例え王太子仕様であっても、囚人経験すら持つだけあって、
不満の色を浮かべたりはしなかった。豆と大ぶりの葉野菜を煮込んだものと、
燻製の豚肉にブロートだけはたっぷりあった。それらをきれいに平らげて、二
階の客間らしき部屋に案内され、ではまた明日と閉じようとした扉をガッとや
や乱暴に留められ、プロイセンの眉間に皺がよった。
「……何か?」
「言っただろ、お代だよお代。これで俺が眠ってるうちに夜逃げされたら
堪らねーからな」
「夜逃……んなことするかよ!」
「保証がねぇだろ?」
ひらひらと手で催促されて、かちんとくる。それでも余計な面倒はごめんなの
で、とっととそれなりの額を渡してしまおうとしたところで、はたと気が付い
た。持ち合わせがない。
さっと青ざめてプロイセンはちょっと待てと少しどもりながら先に部屋の中へ
入っていたフリードリヒを振り返った。
「フ、フリッツ、お前金持ってるか?!ターラー銀貨1枚くらい!」
頼む頼む頼むと頭の中で唱えながら縋る思いで訊ねる。けれどそれは、
「まさか」
の一言で砕かれてしまった。
「私が自分で硬貨を持ち歩くと思うか?」
「ですよねー」
はははと笑いをひきつらせている場合ではない。フリードリヒが「それより1
ターラーは幾らなんでも高いぞ」とか何とか言っているが耳には入らない。
王たるフリードリヒはもちろんだがその王と行動を共にする時はプロイセンも
ほぼ手ぶらなのだ。王といて、硬貨を使う機会がそうそうある筈もなく、面倒
になってやめてしまった。林檎を齧ったり花売りに恵むつもりで一束買い上げ
るくらいはできるが、たっぷりの食事や一晩の宿代には至らない。
まさに今のように。
こちらの動揺に目ざとく気付いて薬屋はおい、と低い声にどすを効かせた。
「まさかお貴族さまが、金がねぇなんて言わねぇよなぁ?」
「え……」
どう考えてもこれでは詐欺野郎だ。今になって持ち合わせがないなんて、言え
る雰囲気じゃない。焦って上ずった声に薬屋の眉はどんどん吊り上がっていく。
「や、ちょっと待て!金がないわけじゃないんだ、絶対、」
払える、と事情を説明するため、ぶんぶんと手を振った拍子にプロイセンは己
の腕に付けっぱなしだった金のバングルに気付いた。薄く白色系のそれは縁に
バルトの琥珀が点々と埋められているもので、最近流行の青金という金と銀を
合わせたものだ。金の含有率が四分の三以上を占めるれっきとした純金で、淡
いグリーンの色味がベルリンで人気を博していた。
腕が重くなるから装飾品は嫌だというプロイセンにたまにはいいじゃないかと
後ろでのんきに見学している主からもらったものだ。しかし背に腹は変えられ
ない。
これだ、とひらめいてプロイセンはカシンとそれを外して差し出すと、不審げ
な男に、ここぞとばかりに舌の回転の良さでもっていかに価値のあるものかま
くしたてた。3割は脚色してあるがご愛嬌というやつだ。
「これが……?」
「どこの質屋でも宝石商でも高値買取間違いなしだぜ!」
「嘘じゃねぇだろうな……?」
「マジだって。むしろ一晩の宿代くらいじゃお釣りが出過ぎてこっちが
取り立てたいくらいだが、」
受け取ったバングルを下に横に眺めていた薬屋の首をがっしと掴み寄せて、プ
ロイセンは悪巧みをもちかけるように囁いた。
「外聞の良い話じゃねぇからな……口止め料ってことだ、ヤー?」
賄賂の受け渡しを思わせるプロイセンの口調に乗せられたのか薬屋は目を明後
日の方へ泳がせてどもりながらヤーと答えた。
「よし!商談成立だな。じゃあなGute、」
「待った」
これで無銭飲食にも問われない、何の心配もなく一日の疲れを落とせると心晴
れやかに扉を閉めようとしたプロイセンの手が、またしても薬屋の手によって
止められた。
「あん?まだ何かあんのかよ」
「あんたからはお代はもらったから用はない。けどあっちの奴からはまだだ」
「は?」
「………私のことかな?」
部屋の奥で椅子に寄りかかり、外套も脱がず二人のやり取りを聞いていたフリー
ドリヒが突然指名され、驚いてプロイセンと目を合わせる。
「あんたも大人ならてめぇの分はてめぇで支払わなくちゃなぁ?」
数分前にはプロイセンに気圧されていたとは思えない立ち直りの早さに、フリー
ドリヒは自分が標的だという状況も忘れてぷっと小さく噴き出した。
それは当然薬屋を苛立たせ、にやついていた顔が一気に険しくなり、プロイセ
ンはおいとフリードリヒを嗜めた。
「フリッツ!なに他人事みたいに笑ってんだ!」
「ふふ……いやすまない、あまり慣れていないものでね、こういう待遇は」
「慣れてたまるか!」
「おい、あんたらいい加減にしろよ。で、そっちの奴もさっさと払いな」
せっかくのなごみかけた、もちろん一方的にだが緊張の緩んだ空気をまたも男
は重低音の声で固くしてしまう。本人の言う通り、我慢の限界なのかずいっと
一歩部屋へ足を踏み入れて、プロイセンを押し退けようと肩を掴んだ。
「払えねぇならあんたは放り出すぜ。一人分しかもらってないんだから、
文句は……いてぇっ!」
言い終わらないうちにプロイセンの肩においていた手が当人の左手で痛烈に弾
かれる。
「なにしやがる!」
「気安く触るな。それから、」
ひゅっと風を切る音がして、直後に薬屋の足にプロイセンの鋭い蹴りが入った。
ぱぁんと乾いた音と共に、がくんと膝をついた男を見下ろしてプロイセンはさ
っきまでとは打って変わった硬質で冷えた声になった。
「今夜一晩ここは俺が買った部屋だ。許可なく立ち入らないでもらおう」
そしてプロイセンはしゃがみ込み、痛みに呻く薬屋に目線を合わせる。
「もう一つ。次にフリッツに無礼な真似をする時はその右手とは永遠に
さよならだって覚えておけよ」
有無を言わせない迫力に目を白黒させる薬屋に更に一瞥くれて、プロイセンは
スッと立ち上がり、
「ではGute Nacht、良い夢を」
その鼻先でバタンと扉を閉じた。