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愛着理論

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必然の被害者



 夏の日差しがアスファルトを照りつける。住宅街には臨也以外にほとんど人影はなかった。スーツケースを引く音だけが道路に響いている。臨也は建物の影を辿って歩いたが、高い気温と湿度は避けられない。汗が滲む。

 陽炎を追いかけていた臨也の視界に、突然人影が飛び出してきた。街路の角から現れた顔を認めて、臨也は激しく動揺した。相手も眼鏡の奥の瞳を見開く。
 臨也は即座に平静を装って自分から声を掛けた。自分に用があるとしか思えないからだ。
「新羅。どうしてこんなところに?」
 軽装の私服で立ち塞がっていたのは、臨也の同級生だった。今一番会いたくない種類の人間だ。
「どうしてだって? 僕の数学のノートを誘拐しておいて……っていうか何、その大荷物? 旅行じゃないよね」
 新羅が興味津々といった様子でスーツケースをじろじろ見ている。そういえば、ノートを借りたままだったことを思い出した。めぐり合わせの悪さに目を覆いたくなる。いっそ行き違いになればよかったのにと、臨也は自分の不手際を棚に上げて思った。
「ちょっと知り合いに借りてたものを返しにね」
「僕のノートは返しに行かなくていいの? ……そのバッグからしたら年上のお姉さんかな?」
 適宜嫌味を織り交ぜながら、新羅は幼い顔立ちに似合わない薄ら笑いを浮かべた。
「そうかもね。と言うわけで新羅。ノートは明日一緒に出しといてやるから」
「まだ問題集やってないんだよ!」
 間髪入れずに食い下がる新羅に、臨也は首を傾げた。新羅は確かに成績は良かったが、真面目さに頓着しているようには見えない。
「あー……なんだったらやっといてやってもいい。借りてた人が急な出張らしくてね。急ぎなんだ。」
 臨也は少し考えて、口からでまかせに言葉を並べ立てる。焦りからか明らかに苦しい内容になった。嫌な予感がする。特に新羅は、臨也の口車に乗らない人間だ。
「そこまで言うなら、まぁいいや。僕の提出点をくれぐれもよろしく。」
 言葉とは裏腹に、新羅が何か探るように視線だけで臨也を見回した。居心地の悪い不安に晒されたが、愛想笑いで視線を返した。
「じゃあね」
 臨也はさっさとその場を離れようと、挨拶もそこそこにスーツケースを引いた。しかし、新羅が真正面からどこうとしない。
「ところで、そのスーツケース、やけに重そうだね」
 新羅がわざとらしい動作でスーツケースに顔を寄せた。臨也の視線が不自然に揺れる。
「たくさん本を借りてたんで、ついでに返そうかと思ってさ」
 新羅は気のない返事をしながら、じっとスーツケースを見つめている。
「じゃあ、急いでるから」
 強引に新羅の横をすりぬけようと、足を踏み出した。しかし、すぐに腕を捕まれて引き止められる。
「何?」
 思わず臨也の声が強張る。新羅は普段どおりのおおらかな笑顔を浮かべ、臨也の息の根を止めた。
「髪がはみ出してるよ」
 臨也ははっとしてスーツケースに視線を落とす。一瞬混乱に陥った。しかし、一種の予感めいたものを感じて、恐る恐る新羅を振り返った。
 新羅は、拍子抜けするほどいつもの顔で、やっぱりね、と笑った。

「ソレって死んでるの?」
 新羅は興味津々でスーツケースを凝視している。常々変わり者だとは思っていたが、認識を改めなければならない。臨也は溜め息を吐いた。こうして異常性を目の当たりにすると、知らない別人のようにさえ感じる。
「生きてる。でも暑くて死んじゃうかも」
 こめかみを汗が伝う。臨也は無造作に袖で汗を拭った。
「ふーん。東京湾に沈めるつもりでもなさそうだね。どうするの、ソレ」
「ちょっと外に捨てに行くだけさ。もういいだろ。中身が目を覚ます」
 公園に着く前に目を覚ましたら、スーツケースの鍵を開けて離脱するぐらいしか臨也には手がない。しかしそうすると、スーツケースの回収が難しい。両親から追求されることを想像するだけで、臨也はげんなりした。
 新羅はそれを聞いた途端、携帯を取り出して操作しはじめた。そういえば、どうしてノートのことは電話して来なかったのだろう。臨也の頭の隅に疑問が過ぎったとき、新羅がおもむろに口を開いた。
「ねぇ臨也、僕に借りを作る気はない?」
 意図を掴みかね、表情だけで続きを促す。
「だって君、その顔で行くつもりかい? 腕はどうしたの?」
 臨也のこめかみ辺りを新羅が遠慮がちに指差した。一瞬意味が分からなかったが、袖をよく見ると、布地が血を吸って変色している。
「妙に暑そうな格好だと思ったんだよね。うわぁ痛そう」
 新羅は勝手に臨也の袖をまくり上げ、傷口を晒した。どう見ても人間に引っかかれた痕を。そして、返事も聞かずに携帯でどこかに連絡を取った。臨也はとりあえず血の付いてない袖の部分を探して、こめかみの辺りを拭う。
「あはは、やめときなよ。よけい広がってる。まぁ僕に任せてよ。早くて確実! 安くはないけど」
 能天気に笑う新羅は、明確に説明する気は無いらしい。面白がられているのが分かって、臨也は腹を立てた。
「何しようとしてるか知らないけどさ、俺一人で大丈夫だから。今日はもう帰って。ぐずぐずしてたら目を覚ましちゃうしさ、うっかり死んじゃったらどうしてくれるわ……け……」
 そのとき、腕に振動が伝わって思わず言葉が止まった。がたがたと揺れるスーツケースを見て固まる臨也に、起きちゃったね、と新羅が残酷な言葉を吐いた。

「とりあえず、君の家に行こう。クーラーあるよね」
 臨也が自失状態から回復すると、スーツケースは既に新羅に引っ手繰られていた。
「うわ、重」
「ちょっと、何やってんの。返して」
 小柄な新羅がよろよろと逆の道へ進みはじめたのを、肩を掴んで引き止める。新羅は微塵も躊躇いを感じていない様子で振り返った。臨也は、ここまで来たらスーツケースは失くしてもいいと思っていた。家から引き離したこれを、もう家に近付けたいとは思えない。
「だってもう頼んじゃったし。涼しいところで待ちたいじゃん」
 新羅が得意げに携帯を振りかざす。
「さっきから一体何の話? 意味わかんない」
「僕としては、このスーツケースのほうが意味わかんないんだけど?」
 僅かに真剣味を帯びた声色に、臨也は思わず口を噤む。真実を話すつもりはなかった。臨也が考えていることが真実だとも限らない。それ以上に、どうしてこんなことをしているのかを問われれば、答えられる気がしなかった。
「はぐらかすなよ」
 臨也が何とか絞り出した声は、思ったよりも掠れていた。新羅はその様子を可笑しげに笑う。
「運び屋だよ」
 新羅は再びスーツケースを攫っていった。
「腕の良い運び屋を知ってる。すぐ来てくれるみたいだよ。良かったね」
 新羅は歌うように言った。重心の取り方を覚えたのか歩みはスムーズだったが、スーツケースは時折不自然に揺れた。
 臨也は新羅とスーツケースを交互に見て、計画の破綻を認識した。

「ところでさぁ……そんなに血付いてる? 目立つの嫌なんだけど」
 提案を了承する代わりの言葉を投げかけると、新羅は苦笑してハンカチを差し出した。臨也がべったりと血をつけたまま返してやると、新羅は爽やかな笑顔で暴言を吐いた。
「死ねばいいのに」
 スーツケースが大きく揺れた。

作品名:愛着理論 作家名:窓子