秘密はどうかしている
「おれなりのやり方で君のこと大事に撫でるよ」
しかし、デイジーの答えは簡潔で、やだよとヒューの手を押しのけた。
「男に撫でられるなんて全然気持ちよくない。ぞっとする」
「おやそうかな?」
「…ロクスには慣れたから別に構わないけど…」
「大変だったなあ。慣れるまでが」
「だって、油断するといつもおかしなことしようとするから」
それは楽しい過去らしい。ヒューの前に並んで座る二人はソファの上で笑い転げた。いつも置いてきぼりにされる。二人の間に入れないと思うのはこういう時だ。
この二人だけで共有している過去の数が多過ぎる。
けれども、その一つに今、ヒューは足を踏み込んだ。
「でも、おれが撫でなかったら、デイジーは大変なことになるんだろう?」
笑いが消えて、デイジーは心もとなげに足元に視線を落とした。
「…ああ、多分、弱って死ぬ」
「大丈夫、きっとおれにも慣れるよ」
明るく言い添えるヒューをちらっと見上げて、「慣れたくない」と、デイジーの答えはまたしてもそっけなかった。けれどもロクスが爆弾を転がした。
「試してみればどうかね」
ヒューとデイジーが二人揃ってロクスの顔を見た。
「前任者の指導が必要だろう?」
「それって、あなたの前でデイジーを撫でるっていうことですか?」
ロクスは頷いた。指で払う仕草をする。わかったら、さっさと撮影を始めさせろと促す監督のように。
「ロクス!」
デイジーは慌てたように叫んだ。
「仕方ないじゃないか。もう私じゃだめなんだろう?ヒューに撫でてもらいなさい」
デイジーは明らかにショックを受けていた。ひどい言い方だとヒューも思う。デイジーはあんなにロクスが好きなのに。それはひりひりとした擦過傷の痛みを心の中に感じさせる事実だけれども。
ヒューはデイジーの背中を軽く手のひらで叩いた。それでもデイジーの身体はヒューの手の下でびくりと竦んだのがわかった。
「今夜は終わり」とヒューはソファから立ち上がって言った。
「朝は早い。二人もたまには早起きしてトレーニングすればいいよ、おやすみ」
二人に向かって明るく、有無を言わせない調子で提案する。
けれども即座に異議が飛んできた。
しかもデイジーから。
「待てよ。死活問題なんだ。試させてもらう」
「え!嫌がってたくせに!」
「今だって嫌だよ!考えてみろよ!男にあちこち触られるのが好きになれると思うか!?」
「ロクスとはまんざらでもなかったくせに」
当然、とロクスが口を挟む。
デイジーは言い返そうとしたが、顔だけ赤くしたまま、言葉が出ないようだった。
その腕をヒューは正面から掴んでデイジーを立ち上がらせた。まるでこれからダンスを始めるかのように片手を腰に回されて、デイジーの動きは奪われる。
「もう逃げはなしだ。前任者はよろしくご指導を」
やけになっているんだな、とヒューは頭の片隅で思った。自分もデイジーも、ロクスも。
最初は服の上から身体の線をなぞり、それだけでもデイジーの背中は触れられた場所から震えた。逃れようとする身体を自ら押し止めるようにヒューの首元にデイジーの腕が回される。
「大丈夫、デイジー。怖くしないよ」
うん、とくぐもった声で返事をして、デイジーはヒューの肩口に顔を隠した。デイジーの普通の耳朶が薄赤く染まっている。
果たして最初から舌で撫でるのは許されるのだろうか?
前任者の意見は聞かない。
その端にちょっと口付けただけでデイジーはヒューの腕の中で驚いて飛び上がるかのように反応した。肩に埋めていた顔をあげてヒューを見つめたデイジーの青い目は、透き通って、今にもこぼれて流れそうな光を湛えていた。
「…驚かせたね、ごめん」
撫でられている間のデイジーの気性はひどく大人しい。身体は驚きこそすれ、拒絶せずにヒューの手を受け入れている。
なだめるように背中を撫でてやりながら、喉元や顎を頬で擦った。くすぐったそうに細められたデイジーの目尻から、さっき浮かんでいたものが透明な筋をつくって頬に流れると、その流れをヒューの唇は遡って、デイジーの右の瞼に口付けを落とした。伏せられた睫毛の感触を味わって、左の瞼へ。
「ヒュー、目を開けたい…」
「うん、口にしていい?」
デイジーは頷かない。拒みもしない。
デイジーの唇がどんな風に自分を受け入れるのか、ヒューは文字通り夢見たことさえなかった。
想像ができなかった。ただ、望んではいた。
デイジーの頭の後ろに手を回して、額にそっと口づけ、鼻梁にと滑らせる。
ロクスは見ているはずだ。彼だけの猫だったデイジーがヒューに奪われるさまを。
一体どんな気持ちでこれを見ているのだろうかとヒューは思い、同時にそれを知りたくないと思う。
欲望は確かにあった。
彼の前で奪いたいのだ。猫のデイジーは彼の前で奪わなければ、おそらくヒューを認めない。
最初は柔らかく、唇をかすった。それからゆっくりと深く合わせる。背を撫でながら舌を滑り込ませるとわずかな抵抗さえもなかった。
ヒューの手のひらの下でデイジーの身体は蝋が溶けていくかのように脅えを忘れ、ヒューのキスを受け入れた。そればかりか、ヒューが唇を離す寸前、名残惜しげにヒューの唇を舌先で舐めさえした。濡れそぼったそのままで薄く開いて、弾むままに息をするその様が、夢なんて見られるわけがないとヒューはデイジーを初めて知ったような気がした。
デイジーの膝が床に崩れ落ちるのを抱きとめて、ストロベリーブロンドの中に顔を埋める。耳はデイジーとは別の生き物のようにヒューの気配にぴくりと動いた。
ふと、ヒューは気がついた。
しっぽをまだ見ていない。
きっとまだ隠れているのだ。
片手でデイジーのはいているズボンのボタンを外して、もう一方の手は背中から辿り下りるようにすると、腰のくぼみのところでデイジーの身体が跳ねた。
「ここは…また後で」
ヒューはそう囁いて、そこからズボンの下に指先を差し入れた。手ごたえはあった。
瞬間、恐ろしい速さで首に巻きついてきたなにかにヒューの意識は奪われた。
しかし、昏倒する寸前もデイジーを離さずに、自分の上に倒れさせた。
「撫でるだけだといったはずだ。前任者の言ったことは覚えておくものだよ、ヒュー。まあ私も最初は引っかかったがね」
うそだ。そんなこと聞いてないぞ、とヒューは薄れ行く意識の中でロクスの笑い声を聞いた。あとで本人は否定していたが絶対笑っていたとヒューは確信している。
デイジーのしっぽは凶暴だ。しかも本人は意識してないのだという。
「勝手に動くんだよ、これは」
そんな猫聞いたことがないと、ヴァン・ヘルシングの黒いコートを着込んだヒューは、革の帽子のつばを手に持ちながら眉間に皺を寄せた。
次のシーンの準備で忙しいスタッフたちの邪魔にならないように人通りの多いところを避けて、教会の前で腰を下ろしている。
カールの衣装を着込んだデイジーは髪の具合を気にしつつ、衣装は気に入ってる、しっぽを出していても気付かれないからと、ローブの裾を払って立ち上がった。
「で、君もああいう結果がわかってたから、試そうなんて言ったのか」
「まあね」
作品名:秘密はどうかしている 作家名:bon