whimsical love
―――……何だ、今の。
俺は横を向いたままの姿勢で固まってしまう。少しの間頬に載ったままだった手のひらが離れて行くのを感じた。
―――何なの、そのやけに可愛い効果音は。
シズちゃんがキレて殴った、んだと思う。
でも、全然痛くない。腕に止まった蚊を叩く時より、痛くない。シズちゃんにまともに殴られたら骨にヒビくらい軽く入るはずなのに。
俺は頭が軽く混乱し始めているのを感じた。様々な思考が頭の中を素早く過ぎって行く。
―――手加減、されたのか?
いや、違う。シズちゃんは俺と恋人同士になってからも、本気で喧嘩を挑んでくる。そもそもキレたシズちゃんが力を加減できるとも思えないし。無意識レベルの話は別として。
シズちゃんが俺に対して意識的に力を抑えるのは、俺のことを抱きしめるときだけだ。
これはつい最近、付き合い出してから発見した貴重な事実なのだ。
シズちゃんの両腕の力はそれでも十分強かったけど、慎重に力を抑えてるのが分かった。要するに、大切にされたってことだ。この俺が、シズちゃんに。
……まぁ実は、まだ2回しかそういうデレたことはしてくれてないんだけど。
―――いやいや、今はそれは置いといて。
この特例の時を除いては、シズちゃんは俺に対して力を抑えない、はずなのだ。
というか、抑える必要もない。
大事な人を傷付けてしまうから暴力が嫌いだと言うけれど、俺に対しては自分の力を怖がる必要なんてない。そのままでいいのだ。
俺なら、否、俺だけが、暴力ごと全部、シズちゃんのことを受け止められる。
そんなことが、俺はとてつもなく誇らしいのだ。
他の奴じゃ、ましてや女の子じゃ、こんな役目は果たせないだろう。何より、シズちゃんの方がどうしたって気を遣ってしまう。これは長年殺し合いをしてきた折原臨也だけの特権なのだ。
―――だから。
だから俺は、そのことを改めて実感したくて、あんな台詞を言ってしまったのだ。きっと。
あのやけに強いロシア人の女より、たとえ男でも自分の方がシズちゃんに相応しいのだと勝手に納得するために。
だから、あそこでシズちゃんが鍋でも何でも投げてくれていつもの喧嘩が始まったら、安心できたはずだった。
やっぱり俺だけなんだ、って思い上がれた。
―――なのに、
「臨、」
「何で本気で殴んないの?」
名前を呼ばれるのを遮って、向かいに座るシズちゃんの顔を睨み付ける。だけど、勝手に溢れ出した涙のせいでその表情はよく見えなかった。
でも、分かる。シズちゃんは多分今、心底呆れた目をして俺を眺めているのだ。
―――あしらわれた。面倒がられた。鬱陶しがられた。
シズちゃんのあの全くやる気のないビンタは、つまりそういうことだ。そうとしか考えられない。
軽く現実逃避しかけていた頭が、ようやく認めた。
―――俺がしつこかったから。黙ってたのは怒ってたんじゃなくて、うんざりしてただけなんだ。
シズちゃんは手加減して殴ったわけじゃない。ただ、蚊を追い払うようなぞんざいな気持ちで手を動かした結果、力が弱くなっただけなのだ。別れる気も無いのにシズちゃんを困らせようとした俺のことが、冗談じゃなく本気で、うざくなったんだ。
滅茶苦茶なことを言って一方的に不機嫌になったのは、確かに俺が悪い。だけど。
「そんな、どうでもいいみたいに、扱わないで」
ショックだった。
こんなことは、今まで一度も無かった。こんなに静かに苛立つシズちゃんなんて、無言で拒絶されるなんて、初めてだ。怖い、とさえ思った。
「いつもみたいに、もっと、本気で怒ってよ」
いつだって、シズちゃんは俺に対して本気になってくれるはずなのに。俺だけが特別なはずなのに。腹を立てる価値もないわけ?
訳も分からず流れる涙のせいで、やっぱりシズちゃんの表情は見えない。でも滲んだ金髪を見ていると、あのロシア人の女をふと連想してしまった。
……分かっている、あの子は美人だ、スタイルもいい。シズちゃんともお似合いじゃないか。
―――馬鹿みたいだ、俺は男であることにコンプレックスなんてものを覚えている。
はっきりとそう自覚した時、横目でしか見ていなかったはずの、あのドラマの一場面が再び脳裏に浮かんだ。
部屋を立ち去ろうとする男に冷たくされながらも、私だけを愛してと虚しく訴えかける女。
―――ああ、今の俺は、まるで。
泣き笑いの表情で、それでも精一杯の強い声でシズちゃんに言う。
「こんなところでだけ、俺を『女』みたいに、するな……!」
作品名:whimsical love 作家名:あずき