ヘタッスル!
気分転換のつもりで始めたゲームだったが、気がつけば時計の針は八時ちょうどを指していた。日井は直接、集合場所に向かったのかもしれない。仕方ない、とゲームの電源を落とし、よいしょと掛け声を掛けて立ち上がる。テレビ画面が真っ黒になった瞬間は、ほんの少しゲームに未練が沸いたが、立ち上がってみるとたちまち体が肝試しへのワクワクでいっぱいになった。
「俺は幽霊なんか怖くないんだぞ! だってエースストライカーだからね!」
一人で気合を入れ、弾む足取りで集合場所の食堂に向かう。そこで皆が持ち寄ったものを集め、おどかす役やルートを決めて道具を配分することになっていた。肝試しに挑む側としてルートを回るのも楽しそうだけど、おどかす側として皆を怖がらせるのも面白そうだな。あ、でも、林の暗がりに隠れて回ってくる人を待つのは怖そうだな。待っている間に、本物のオバケに遭遇してしまったらどうしたらいいんだろう。
怖さ半分、期待半分で歩を進める米代の足が、不意にぴたりと止まった。待ち合わせ場所である食堂の扉のすぐ前だ。
何か、中からとてつもなく嫌な気配を感じる。何、と具体的に言葉で説明することはできないが、不吉な空気が閉まった扉のわずかな隙間からこちらに漏れ出している。
野生に近い勘で、米代は中に何か良くないものがあるのを鋭く察知した。唐突に、部屋からここまで向かう道のりで、誰の姿も見かけなかったことに思い至る。夜の、ましてや肝試しというイベントを控えて盛り上がっているはずの寮内で、皆が息を潜めて自室に篭もっているなどありえないというのに。
軽く手で押せば開くはずの扉が、とたんに重く、まがまがしく感じる。思わず一歩後ずさった瞬間、背中にドンと何かがぶつかった。びくっと体が跳ねてしまう。
「ひっ!」
「バカ、なんで下がってくんだよ! 入るならさっさと入れ!」
「あ、なんだ、三カークランド先輩か」
振り返ってみると、ぶつけた鼻を押さえ、三カークランドが涙目でこちらを睨んでいた。不安になったところでよく見知った顔を見かけ、正直に言うとホッとした。
「だって先輩、ここから何か嫌な感じがするんだよ。先輩代わりに開けてくれないかい」
「はあ? なんだそりゃ、相変わらず本能だけで生きてやがるな」
まあいいけどよ、と最後に付け足して、三カークランドが米代の前に出る。三カークランドが何気なく扉を押し開けるのを、米代は緊張しながら見守った。三カークランドのためらいのない手によって、呆気なく扉が全開になる。
その途端、オレンジ色の液体の塊が、正面に立つ三カークランドに襲い掛かった。
「なっ……! ゲホッ、ゴホッ」
声を上げようとして液体が気管に入ったのか、三カークランドがむせて背中を丸める。髪や顎からポタポタと雫を垂らす三カークランドの向こう側、食堂の中を見て、米代は先ほどからの嫌な気配が何によるものなのかはっきり理解した。そう、この匂いは。少し嗅ぐだけで鼻が悲鳴を上げ、舌が勝手に味を想像して苦い唾がわいてくるこの匂いは、よく知っている。
「ニッ、ニンジンの匂いじゃないか!」
このオレンジの雫は、ニンジンジュースに違いない。予想外の事態に一瞬固まった米代の耳を、高笑いが打つ。
「はっはっはっ、気付くのが遅かったなあ米代! て、なんだ、引っかかったのは三カークランドかよ、空気読めない野郎だなあ。まあどっちでもいいか」
気分良さそうに響く仏沢の声。咄嗟に逃げようと身を翻そうとした米代を、誰かがガッシと羽交い絞めにした。振り返ると、日井が申し訳なさそうな顔で目を逸らしている。
「なっ、どういうことなんだい日井!」
「おまえなあ、わかってんのか? いくら夏大が終わったからって、これから気持ちを切り替えて練習に励まなきゃならないときなんだぞ! タルんでるおまえに渇入れてやろうってんだよ。ありがたく思いやがれ」
答えたのは、日井でなく仏沢だった。もう一度前に向き直ると、背後にずらりとチームメイトを従えた仏沢が、手に持った物体をニヨニヨと見せびらかしている。それを目の当たりにして、米代はオーウ! と絶叫した。
「いっ、嫌だぞ、なんでニンジンなんか持ってるんだいキャプテン! 肝試しするんじゃなかったのかい!」
「ああ、するとも。おまえの肝っ玉をたっぷり鍛えてやる」
仏沢が手に持っているのは、仏沢お手製らしい、色とりどりに調理されたニンジンの山だった。グラッセやら、煮物やら、なますやら、オレンジ色が皿に山盛りになっている。待ち受けている運命を悟って真っ青になった米代を押さえながら、日井が耳元で呟いた。
「あの人、昨日の決勝戦で勝てなかったこと、悔やんでましたからね。先ほどまで知りませんでしたが、あなたのお気楽発言でかなりプツッときてたみたいですよ……ついさっき、スーパーの大袋いっぱいにニンジン買ってきてましたから。ここはおとなしく、一口だけでも食べたほうがいいと思いますが」
「死んでもごめんだぞ!」
ヘルプ! と泣きながら左右を見回しても、一堂に会したチームメイトたちは、皆米代の不幸を見て見ぬふりというのか、微妙に視線を逸らしている。中には、必死に笑いをこらえている者までいる。米代のために抗議してくれる人材は無いようだ。万事休す。そう悟ったところで、鼻先にスプーンを突きつけられた。仏沢がニヨニヨと笑う。
「さ、米代、食べろよ。飛び切り腕によりを掛けたんだぜ?」
「ううううう……」
腕によりを掛けた、と言われても、脳内で勝手にモザイク処理されているのか、スプーンの上に乗っているのがどんな料理かもわからない。ただただ鼻腔に、ニンジンの野菜くささが広がる。食べなければならないのだろうか。涙目になる米代に、仏沢が更に畳み掛ける。
「へえ、おまえはたったこれっぽっちを飲み込む勇気も無いのか? そんな臆病者が肝試しをやりたいなんて笑っちまうな。あーあ、こんな玉無しにエース張らせとくのも考え直さなきゃならねえかな」
「さっ、サッカーとこれとは関係ないだろう!」
理不尽ないちゃもんに思わず声を張り上げると、その隙にさっと口内に匙が押し入ってきた。口の中にニンジンの味が広がる。目を白黒させ、すぐさま吐き出そうとした米代の口を、後ろから日井が押さえた。
「お願いだから、この一口ぐらい飲み込んでください……! 噛まなくてもいいですから!」
だって、と言い返そうとしたが、口を押さえられているのと、舌にまずい物体が触れ続けているのとでうまくいかない。涙をためて振り返ると、日井は意外に真剣な表情をしていた。こんな、キャプテンの悪ふざけに、どうして日井が必死になるのだろう。疑問に思ったのは束の間で、次の瞬間には、米代は覚悟を決めて一度も噛まずにニンジンを飲み込んだ。喉が痛むほどの異物感が通り抜けて、ようやく胃に収まる。米代の喉仏が上下するのを確認して、日井が米代の口を解放した。同時に羽交い絞めも解かれ、米代はようやく自由を取り戻して大きく呼吸する。
「ああっ、まずかった! 何か、そうだコーラくれよ! すぐにこの味を洗い流しちゃわないと……!」
「おめでとう!」