さあ覚悟を決めなよ
おんぼろアパートに駆け込んで、施錠を確認。ようやく息を付いた帝人は、そのまま這うようにして畳の上に寝転がる。
「・・・勘弁してよ・・・!」
今も帝人の視界で揺れる、赤い糸。ふらふらと、ひらひらと。まるで蝶のようにあっちへこっちへ、本当に臨也そのものみたいに帝人の心をかき混ぜる。
物心ついた時から、帝人にはこれが見えた。運命の赤い糸、だなんてバカバカしい、そんなことあるわけ無い。けれどもいくら否定しても否定しても、その糸が消えることはなくて、いつも帝人に訴えかける。
この存在を忘れるなと、運命がこの先にあると。そんなの望んでなんかいないのに。
だから極力帝人は、その糸のことを意識の外へと追いやってきた。できるだけ、考えないように、認識しないように、存在ごと無視をして。切ろうとしたこともあるけれど、切れたことはないし、どれだけ引っ張っても果てがないので、もう触ることさえやめた。
幸いにして、その糸のつながる先の人間は長いこと帝人の前に現れなかったので、油断していたのかもしれない。
臨也に初めて会ったあの日。
あれは失敗だった、と帝人は今でも反省を繰り返す。
あからさまに、見えているような態度をとってしまった。耐えるべきだった、糸など知らないという顔をしなければならなかった。だって臨也があの時帝人を見た、あの、喜色満面の表情ときたら!
ああ、駄目だ、あれは忘れなければ。
ほだされてしまう。
帝人はのろのろと起きあがって、制服がしわにならないように着替えると、とりあえずパソコンの電源をいれて座る。今日のアルバイトは、と予定を立て、マウスを握ろうとしたその手を、不意に横から押さえつけられた。
「・・・っ!?」
不審者、と叫びそうになった口を、やはり横から伸びてきた手のひらが覆う。と、同時に揶揄するような声が。
「ひどいなあ、叫ぶ前に俺が誰だかくらい、確認しようよ」
ぞわり、と背筋を何かが駆け抜ける感覚。
帝人はとっさに口を抑えた手を振り払い、右手を掴む臨也の手も同じようにしようと体の向きを変える。それを狙っていたかのように、臨也がもう片方の手で帝人の左手を掴んだ。
「ちょっ・・・!何、す・・・」
そのまま後ろに体重をかけられて、まるで押し倒されるみたいな体制になる。畳に打ち付けた背中が痛んで、帝人は思わず涙目になった。
なんてことだ、不法侵入なんてレベルの問題じゃない。暴行事件として訴えたら勝てるだろうか。ちらりとそんなことを思った帝人の思考を読んだかのように、嫌みたらしいほど整った顔で臨也が笑う。
「別の意味で暴行事件になっちゃうかもしれないけど、それでもいいの?」
「・・・最、低」
意味することを即座に覚って、帝人は思い切り顔をしかめた。息を一つ大きく吸って、吐く。落ち着け。見ないふりを怠るな。運命なんかない。そんなもの、存在しないんだから。
「あのさあ」
かたくなに臨也から目をそらす、帝人のその横顔に、臨也は静かに問いかけた。
「なんで、俺を見てくれないの」
子どもが疑問を口にするような無邪気さで。
「・・・見てますよ」
「嘘。だって帝人君、全然俺に目をあわせてくれない。なんで?俺のことが嫌いなの?」
「そういう問題じゃ、ないです」
「じゃあどういう問題?」
珍しく、いつものからかうような口調でもなければ揶揄の響きも感じられなかった。恐る恐る、帝人は臨也の方へと視線を移す。表情を消した目が、まっすぐ射ぬくように帝人を見るから、いたたまれなくなる。
「君は俺と、赤い糸でつながっているのが嫌なの?」
帝人は息を飲んで、吐いて、覚悟を決めたように臨也と対峙する。やっぱり言うべきだ、と思う。言わなければいけないと。
「・・・赤い糸なんて、ないんです」
睨みつけるようにして断言すれば、臨也が眉を寄せるのがわかった。眉間に刻まれたそのシワの深さが、機嫌の悪さを示すようで落ち着かない。
「ないんですよそんなの!運命だとか、ありえないでしょう!だから、僕を・・・僕そのものを見ていないのはあなたの方です、そうでしょう!?」
ああイヤだ、だから向き合いたくなかったんだ。帝人はぐるぐるする頭を抱えて、そんなことを思う。
臨也は帝人のことが好きなんじゃない、それは帝人が確信していたことだ。
臨也が好きなのは、「赤い糸がつながっている相手」だ。
赤い糸がつながっているならば、帝人じゃなくても誰でもいいんだ。だったら、糸がつながっているだなんて、それしきの理由で選ばれた帝人の立場はない。そんなくだらない理由で好きになって欲しいわけじゃない。そんな、ただの確率論みたいな、無作為に選ばれただけなんて、そんなのが運命なはずがない。
「あなたは僕じゃなくても誰でもいいんですよ、相手に糸さえつながっていればいい、そうなんでしょう!?」
泣きたくなりながら、帝人はそれでも叫ぶ。こんなの言いたくなかった。女々しくてまるで恋する乙女みたいで、まるで臨也が自分を見ていないことが悲しいみたいに聞こえるから。言いたくなかったのに。
ぐすっと鼻をすすった帝人の顔をしばらく凝視して、臨也はなあんだ、と気が抜けたようにつぶやいた。その表情からはさっきまでの冷たさも、不機嫌さも消えている。
「・・・わかったら、どいてくれませんかね」
未だに固く両腕を拘束する臨也を、気合を入れてもう一度睨みつけたなら、臨也はああ、うん、と答えて起き上がり、帝人の腕をあっさりと離した。そう、こんなふうに、あっさりと手放せるなら、最初からつかまないで欲しい。追いかけてなんか、来ないで欲しかった。だから避けていたのに。
「要するに帝人くんはさ」
上半身を起こして、畳の上に座り込む帝人に向かって、臨也は小さく呼びかける。
「糸がなかったら俺は、君のことを好きじゃないんだろうって言いたいんだね」
「・・・そういうことです」
理解してくださってなにより!と続けようとした帝人の目の前で、臨也はニッコリと微笑んだ。そしておもむろに、コートの内側からナイフを取り出して、パチッと刃を表に出す。
「っ!?」
ビクっと体をこわばらせた帝人の目の前で、臨也は赤い糸を手繰る。ぴん、と張ったそれに刃を押し当てて、じゃあさ、と。
「切っちゃえばいいよね、これ」
「・・・は?」
いやそれ、切れないですから、とか。
っていうかそっちに考えますか、とか。
思わず目を丸くした帝人を笑うかのように、赤い糸に添わせたナイフの刃がきらめく。ハサミで何度切っても、包丁で叩いたって切れなかった糸が、あっさりとあっけなくぶつりと切れた。
はらり、と切れたところから落ちて、そしてすうっと消えていったその糸。
ずっと、視界にあった赤。
消したくて認めたくなくて、それでも存在を主張し続けた赤が。こんなにも簡単に消えてしまうなんて。帝人は本気で泣きたくなって、でも泣くのは悔しいので目元を乱暴に拭う。でもこれでようやく、臨也も目が覚めたということなのだろう。ちゃんと帝人の言ったことを理解して、帝人に構うのはこれでやめてくれるだろう。
安心したのか、切ないのかよくわからないため息が出た。
そうしてふと顔をあげると。
「・・・なんですか」
「何って、手だよ」
臨也の手。