誰が為に咲く花
臨也さんの背中は真っ白でしなやかで、彼岸花の赤はさぞかしその色に映えるだろうと、職人としても腕がなるのを感じました。赤い花は存外、扱いが難しいところがあります。牡丹など彫ればあまりに極道じみてしまいますし、鬼百合は人気がりますが、あの黒の斑点が下手をすると見苦しくなってしまいますし、椿は人気がありすぎてどうもやり辛い。僕も、あの人の背には彼岸花こそふさわしいと思いました。ですから僕は嬉しかったのです。あの人のその背に、あの人に一番ふさわしい花を彫るのが僕であることが。
嬉しかったのです。
ご存知でしょうか。刺青とは、皮膚を殺して色をねじ込む力技でもあります。当然、彫るにはかなりの痛みを伴います。臨也さんも僕が彫り物をしている間、ずっと唇をかみしめて痛みをこらえている様子でした。
あの時の感動をなんと言葉にすればいいのか、僕にはわかりません。僕はずっと、あのように臨也さんの綺麗な肌に、自分の手で印を刻みたかったのです。想いを告げようとは思いませんでした、何しろあの人は悪党ですから、嘘を平気でつきます。そんな上辺だけの印ではなくて、もっと長く消えない、ずっと残るようなものを刻みたかったのです。
すべらかな背中に、噛み締めるように、赤を重ねて緑を入れて花を彫る。出来れば魂のその奥深くにまで、刻み込めればいいと願いながら。
この手が、あの人の背中に。ああ、僕は確かにあの時、あの瞬間、このまま死んでもいいと思いました。臨也さんの目の前で、いっそ手首を掻っ切ってやろうかとさえ思いました。あれほど赤の似合う男ですから、きっと僕の赤にも映えましょう。そんなことを本気で願っていたのです、心の底から。
けれども僕はそうはしませんでした、出来ませんでした。臨也さんは僕の手を何よりも愛していたのです、それだけは自信があります。ですから、その臨也さんの前で手首を掻っ切るなど、これ以上ない裏切り行為になってしまいます。ただただ、僕は自分にできる最高の花をそこに刻むことに没頭し、作業をする他にありませんでした。ところがどうでしょう、だんだんと花がぼやけて見えて、何度目をこすってもにじんで見えて、おかしいなおかしいなと思っていたら、僕は泣いていたのです。
子供のように、刺青を刻む針を手にしたまま、僕はぼろぼろと泣いていました。とまれ、とまれと思うのに涙は一向に止まらず、ただ滝のように頬を滑り落ちてぽたぽたと落ちて、畳に染みを作り、あの人の背中をも濡らして、僕は途方にくれました。このままでは、視界がぼやけて刺青どころではないと。
混乱していた僕に、その時、臨也さんが言ったのです。
前を向いたまま、ねえ帝人君、と僕に呼びかけて。小さく震える手のひらを握りしめて、彼岸花は一途花というらしいが、由来を知っているかい、と。
僕は知りませんと答えました。彼岸花が一途花と呼ばれるだなんて聞いたこともありませんでしたから。あの人は博学で、そういう雑学にも、とても秀でていたのです。豊富な話術でもって、そのあたりのお嬢さんたちをたぶらかして、信者のようにして、そうしてたくさんの情報を得ていたそうです。ええ、最低の男でした。でも、愛していました。
海の向こうではね、彼岸花のように、花と葉が同時に存在することのない花のことを、「花は葉を思い、葉は花を思う」と言うそうだよ。永遠のすれ違いだ、お互いに想い合っているというのに、悲しい話だね。
さして悲しいことでもないような口調で、臨也さんはそう言いました。そうして、肩越しに僕を振り返って、少しだけ困ったような顔をして見せて。
俺にとっては、花は君だ。
信じられないくらいに頼りない声で、そんなことを言いました。あの臨也さんが、あんな声をだすだなんて、僕は信じられない気持ちでその顔をぼんやりと見つめ返し、その言われた意味を探ろうと、必死に瞬きをして。
そうして意味がすっかりわかるころには、僕の涙は止まっていました。臨也さんは僕を思うというのです。そして、その思いは永遠にすれ違い、決して通じ合わないと、いうのです。分かっていたはずでした、住む世界が違う二人でしたから、だからこれは、内緒の恋だったはずなのです。ただひっそりと時間の狭間に消えてゆく、そういう恋だった、はずなのです。
僕は歯を食いしばって、刺青を再開しました。
何としてでもそれだけは、完成させなければならなかったのです。これ以上ないほど見事に、今まで誰も見たことがないくらいに美しく、その背に咲かせてあげたかったのです。僕の技量ではそれほどのものは難しかったけれど、それでも、誰よりも美しい花を背負わせたかったのです。僕があの人を愛する分だけ咲き誇る、美しい花にしたかったのです。
やがて、朝が明ける前に、花は見事に臨也さんの背に咲きました。
自分でも改心の出来でした。
あれ以上の彫り物は、一生かかってももう彫ることができないかもしれません。僕のすべての情熱を、あの人の魂に、奥深くに、刻み込んだ花でした。赤く燃えるような細い花弁に、鮮やかな緑の茎をすっと伸ばした花が二輪、からみ合うように臨也さんの白い背を彩って、咲き誇っておりました。
終わりましたと声をかけたなら、あの人はゆっくりと鏡に背を向けて、出来を確かめるようにじっくりとそれを見つめ、やがて僕に手を伸ばして手を取り、いつものように僕の手を大切そうに撫でました。
この世で一番尊いものに触れるような顔をするので、僕はまた泣きたくなって困りました。そんな僕に、臨也さんはいつものように、無邪気に、帝人君の手は本当にすごいと告げて。
覚えていてねと、臨也さんは笑いました。
これが君の彫った花だよ、俺に咲き誇るただひとつの花だよ、忘れないでねと。何度も何度も僕にそういいました。俺は君が覚えていてくれるならそれでいいんだと。そうしていつかどこかで俺がひっそりと死んだとき、俺は背中だけは傷がつかないように守るからと。
そうしたら君はきっと、きっと、見つけておくれよ。哀れな俺の死体に、この花を見つけて、ああ臨也は死んだのだと、稀代の大悪党がこんな風に死んだのだと、君だけは分かっておくれよ。そして涙の一つも零してくれたら、俺はもうそれ以上のことは望みやしない。君だけが知ってくれれば、それでいいんだよ。
あの人はそう言って、最初で最後、声もあげずに泣きました。手が震えていました。怖かったのだろうと思います。
死ぬのも、もう二度と僕に会えないのも、あの人が死んだ後僕が一人で泣くのも、全部全部怖かったのでしょう。
最初で最後の口付けは、そんな、あの人の涙の味がしました。
今でも思うのです。あの人はただ、僕を切り捨てる為にああいう大芝居をうったのではないかとか、今頃はほかの誰かのところで、僕の愚かしさを笑っているのではないかとか。何しろ相手は稀代の大悪党ですから、そうであったとしても僕は驚きません。
でも僕は、それでもやはり、信じていたいのです。あの日の涙を、僕の手を握りしめた温かさを。
信じているのです。愛しているのです。
僕にとっても、花はあの人だから。