家族ごっこ【下】
#11
瞼越しの眩しさに目が覚めた。薬の後遺症か少し違和感のある身体をゆっくりと起こし、状況を確認する。自分の部屋ではないが、生活感はあった。全体の雰囲気は女性的だ。ベッドがあり、低いテーブルがあり、ソファがあり、鏡台がある。それらは狭い空間に非整然と配置されており、はじめからそうであったようにも、急ごしらえのようにも見えた。テーブルの上にはオムライスがさりげなくのっていた。ほんのり湯気があがっているので、作られてからまだそれほど経っていないだろう。生かすつもりはあるらしい。
坂上は節々の軋みを覚えながら立ち上がり、無駄だろうとは思いつつノブを捻った。……やはり鍵がかかっている。窓は小さく、天井に近い場所にあり、たとえ手が届いても通り抜けることはできないだろうと思われた。
カーペットが敷かれた床に座り、膝を抱え込む。食欲はまったく湧かない。何度か立ち上がってはドアを叩き「出してほしい」と訴えてみたが、誰も答えなかった。そのうちに疲れて、何を言っても無駄なのだと諦めた。
どのくらい時間が経っただろうか。階段をゆっくりと上がってくる足音がして、やがて明美が部屋に入ってきた。どうやら食事を持ってきたらしい。
「あら、駄目じゃない。ちゃんとご飯を食べなくては。貴方ひとりの身体じゃないのよ」
オムライスに手がつけられていないことをみとがめつつ、昼食のスパゲティをテーブルの上に置く。
「今度はちゃんと食べて頂戴。せっかく私が貴方の為に作ってあげたのだから、食べてくれないと、貴方は私の厚意を裏切ったことになるわ。裏切り者は嫌いだと言ったでしょう?」
明美が冷えたオムライスをスパゲティと入れ替えに盆の上にのせ片付けている隙に、坂上は半開きの扉から逃げようとこっそり近づいた。しかし明美は気配でそれに気付くと、素早く立ち上がり坂上を突き飛ばして、再びドアを閉めて鍵をかけ去って行った。
坂上は床に倒れ込んだまま唇を噛んだ。満足に身体が動かない。女性の力で、呆気なくバランスを崩してしまった。薬のせいか、食事をしなかったせいか。恐らくはその両方なのだろう。
「畜生……畜生ッ!!」
握りしめた拳を振り上げ、何度も床に叩きつける。腕が痺れても、手が赤くなっても、力尽きるまでやめなかった。
遠い音に呼ばれて、坂上は目を開けた。時間の感覚は麻痺している。閉じ込められてからどのくらい経ったのか、さっぱりわからない。窓の外は明るいが、昼か、朝か。テーブルの上に皿は無い──では、この日の昼間に昼食を食べてから、一、二時間程度しか経っていないのではないか。電話のベルが鳴っていた。この家に電話が来るのは珍しい。気配を窺っていると、誰かが受話器をとった。
「はい、荒井です」
玲子の声だった。彼らはあの日から、誰かひとりは必ず家に残って坂上を監視しているのだ。
「斉藤さん?坂上君のお友達……へぇ、そうなんですか」
……斉藤!?斉藤だ!斉藤が心配して連絡をくれたのだ!坂上は思わずドアに這い寄って耳を澄ました。
***
『坂上君はいません。今、フランスに旅行に行ってるんですよぉ』
電話の向こうで斉藤は首を傾げた。フランスに旅行?そんな話は聞いていない。
「それで、坂上はいつ戻って来るんですか」
『さぁ?当分あっちにいるんじゃないかなぁ。バカンスですよ、バカンス』
「……じゃあ、連絡先を教えてください」
『連絡先ぃ?そんなの知りません』
***
玲子は一方的に話を終わらせると電話を切ってしまった。……何を期待していたのだろう。取り次いでくれる筈などないのに。坂上は肩を落とすとベッドに仰向けになった。
一方その頃、ホテル鳴神のフロント係は、昭二が部屋に荷物を置いたまま行方をくらませた件について、支配人に相談した上で警察に通報していた。駆け付けた刑事は、部屋の様子を見て「荒井昭二は何らかの事件に巻き込まれた可能性がある」と判断した。
「彼がこのホテルに滞在している事を知っている人物に心当たりは?」
刑事に尋ねられ、昭二に直接応対した者として立ち会っていたフロント係は、昭二がホテルを出た翌日に掛かってきた電話の事を思い出した。
「そういえば、若い男性から荒井さんにお電話がありました。ただ、その方は荒井さんが何処に向かわれたかはご存知ないようでした。荒井さんが戻っていない事をお伝えしたところ、ひどく驚いていらっしゃいましたし」
「その人の名前は?」
「それが……お聞きできなくて」
「なるほど。手掛かりは無しか……」
刑事の勘が、これはとんでもない事件だと告げていた。