それは優しいだけのうた
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それからあっという間に時間は過ぎていった。
初めのうちこそ、それこそ息を付くヒマもないくらいの勢いで駆け抜けて行ったようなものだが、ふとしたはずみに、思い出す。
目まぐるしく変わる毎日の中、故意に埋もれさせようとした記憶。
「・・・もう一人のボクは、どうして王様って呼ばれてるの?」
ある時不思議に思って遊戯は問いかけた。
はじめて出会った時、彼はすぐにボクの名は「遊戯」というのだと教えてくれた。
ほら、ここに書いてある、と笑い混じりに額を指して。
けれど逆に名を問い返したのに、彼は「自分には名はない」と告げた。
ずっと一人でいたから、いつの間にか忘れてしまった、と。
「・・・言い出したのが誰だったかは判らない。名前がないのが呼びにくかったからだろう」
・・・つまりそれは。
自分自身が名を忘れるほどに、
誰もその名を知らないほど、遥か遠くの昔から、この果ての世界にいたということにはならないだろうか。
彼の最初を誰も知らない。
この世界の最初の一人。
だから彼はこの果ての世界の、名前のない王だと。誰かが呼びだしたのだと彼は答えた。
・・・どうしてそんなに長い間、ずっとこの世界にいるのか、とは聞けなかった。
ただ、かつての記憶が目を閉じていてすら、瞼の裏で踊る。
『自分の名前…忘れちゃったの?』
『ああ。だから好きなように呼べばいい』
『・・・この世界は皆繋がっているんだよね。――――キミはボクで?ボクらは、同じ視点で世界を視る、んだよね?』
じゃあ、ボクらは同じモノ、なら。
『――――もう一人のボク』
キミの事は、そう呼ぶよ。
あの時、彼はどう名前を付けて良いのか判らない、不思議な笑みを浮かべて、笑った。
ひどく透明で、無防備な笑顔で。
「・・・ッ」
しゃくりあげた自分の呼気で目が覚めた。
夢だ。
墜ちる前の夢。
降りてきてもう随分経つのに、全く色褪せない記憶。
城之内も御伽も、人の世界の暮らしに溶け込もうと追われている内に、あの世界での記憶はすぐ色褪せて曖昧なものになってしまった、と言っていたのに。
少しでも思い出そうとすれば、すぐに。
もう空を知り、花を知り、風の感触も何も知ったというのに、あのモノクロームの色彩を容易く思い出せる。
遊戯は身体を起こした。
夜明け前だろうか。
御伽は久々の泊まりだと言っていたし、城之内はもう既に朝の配達に出かけているようで、部屋の中には人のいる気配がない。
珍しく、今は一人だ。
まだこの世界の知識と、自分自身の感覚を部分的に結びつけられないでいる自分を気遣って、2人はなるべく多くの時間を一緒に過ごしてくれている。
だが、今は一人で良かった。
きっと、今の自分のカオは見せられない。
夢を見たのは久し振りだったように思う。
それもまた、最初にあった頃くらいの夢だ。
・・・長い、長い間キミがいた。
はじめて自分を認識した瞬間から、ずっと。
人に、と思いだしたきっかけは些細な事だったはずだ。
…ただ、単に近付きすぎたのかもしれない。
だけど、人の歴史より、言葉より、何より。
キミの歴史と、言葉を知りたい。
・・・そう、思ってから。
「・・・ッ」
膝を抱えて、身体を折った。
こんな感情は知らなかった。
胸の痛みは、いつも自分のものではなくて、ほんの少し受け取って、抱き締めてあげるだけのものだったのに。
痛い。
息が詰まる。
喉が、呼吸が乱れる。
目の奥が熱くなってきて、耐える術も知らずに、涙がこぼれた。
――――いない。
キミが、いない。
互いに呼び合えばいつでも会えたあの頃には戻れない。
最後に目に焼き付いた笑みの意味もわからない。
どうして。
いつしか抑えられない理不尽な怒りすらわき上がってきそうで、きつく唇を噛んで、俯いた。
…駄目だ。
泣いちゃ駄目だ。
あの優しい人たちに心配をかける。
早く泣きやんで、一人で立てるようにならないと。
自分がどれだけ揺れたとしても、必ず朝は来て、日はまた昇り、繰り返す。
この世界に望んで降りてきたのは、間違いなく自分なのだから。
誰のせいでもない。
確かに、先へいきたいと願ったのは嘘じゃない。
けれど、ごめん。
自分の歩むその先に、共に彼がいてくれる事を
…強く。強く望んでいた事もまた、本当だったから。
最後に手を離された、と。そう思ってしまうのは自分勝手な思いだとは判ってる。
でも。
何度でも繰り返す、最後の瞬間のあの笑み。
…諦めた人が見せるものによく似たそれ。
…彼はあの時、何を諦めたんだろう。
どうしてもその意味を聞きたかった。
もう、聞く事は出来ないけれど。
作品名:それは優しいだけのうた 作家名:みとなんこ@紺