貴方の色で私を染めてください
廊下から聞こえてきた黎深の言葉に、絳攸はやはり涙するしかなかった。
結局、自分は何がしたいのだろうか。
「……怒られただろうが、馬鹿楸瑛……」
なぜだか無性に、楸瑛の顔が見たかった。
「楸瑛? 楸瑛なら今日は軍の演習に付き合っている。今日は遠くまで遠征すると言っていたから、帰るのは今日遅くか明日だろうな。……聞いていなかったのか?」
そういえば、そんなことを言っていた。
昨日の酒の席で、酔った頭がそれを聞いた気がする。
「そう……だったな」
両手で抱えた書や書簡を机の上に置き、絳攸は慣れ親しんだ席へと着いた。
あくまで淡々と墨を磨っていると、一つ案件を詰めなおした劉輝が眉をひそめた。
「最近のおぬし達は何か変だな」
「俺は別に。あいつは…、最近後宮に行っていないらしいから、色々鬱憤が溜まっているんじゃないのか」
そうか、と劉輝は存外あっさりと引き下がり、次の執務に執りかかった。
沈黙が訪れる。
透明な水が、真っ黒な墨に浸食されていく様子を眺めながら、絳攸は小さく溜息をついた。
水はいい。染まろうと思えばすぐに様々な色に染まることが出来る。
自分は、何の色にも染まれない、中途半端な存在だというのに。
「……染まりたいのに」
「え?」
絳攸の呟きに、劉輝は仕事の手を休めて首をかしげた。
「どっちつかずというのが一番いけないことなんだと思うんだ。違いますか」
「蝙蝠か」
脈絡のない話でも、劉輝はちゃんと聞いてくれる。
子供のような返答に笑みを漏らし、絳攸は頷いた。
「それで、結局自分の身を確立できなかったでしょう?」
蝙蝠は、翼があるから鳥なのか、牙があるから獣なのか。
そのどちらでもあるといえるが、それと同時にそのどちらでもないのだ。
「俺も、……」
自分という存在を確立できない。だから、こんなに揺れるのだ。
染まりたい。あの人の色に、染まりたいのに。
「絳攸、それは違うぞ。確かに“色”は強大な武器だが、強大ゆえに諸刃の剣だ。“色”の元に地位も金も集まってくるが、それは見えない糸に縛られているのも同じだ」
相変わらず、怖いくらいに聡い。
そうだ。分かっている。
だから、自分に“色”がないのだと、分かってはいるのだ。
「分かっていますよ」
でも、だからこそそれに応えたい。届かない場所で永遠に背中を眺め続けるなんて御免だ。
そのためには“色”が必要で……、果て無き思考の回廊が絳攸を苦しめる。
「それにな、人の価値は“色”ではない」
理想論だ。
絳攸は頭の中で劉輝の言葉を切り捨てた。
「……分かっていますよ」
話しながら手の止まっていた劉輝と違って、絳攸は話しながらも自分の仕事はきっちりと終わらせていた。
処理の終わったものを劉輝の机の上に容赦なく積み重ねて、絳攸は疲れたように笑った。
「それでも、結局は何も変わらないんだ。……知ってるだろう?」
お前も紫家の王ならば。
今日の食材は、白菜と鶏肉に、葱に豆腐……つまりは鍋の材料だ。
楸瑛が遠征に向かっていて帰れない分、自分だけでも食事を楽しみたいと食材を持ってやってきたはいいが、絳攸は途方に暮れていた。
いささか重い荷物を両手に提げて、絳攸は月を見上げた。
端が欠けた、さらには雲に隠れかかっている、不恰好な月。
「……俺は、何処にいるんだろう」
切実だ。
影が見えないから現在位置を特定できない。
とりあえず、適当にあたりをつけ、歩き出す。丁度月を背に、自分の影に向かって歩くような形になった。
「大体が、なぜ俺があいつの尻拭いをわざわざ…」
絳攸の歩みが止まる。
朧月に照らされた自分の僅かな影が、突如消えたのだ。
いや、正確には自分の影を覆うほどの大きな影が背後に現れたというべきなのだが。
「何の用だ」
振り返らずに問い掛ければ、下卑た笑いが闇夜に響く。
「わざわざ人気のないところまで誘導してくれてありがとよ、へへっ」
「……そんなつもりは毛頭ないんだがな」
たまたまだ、と思いたい。自分にも何処を歩いているのかが全くわかっていなかったというのに。最悪だ。
懐にいつも常備している護身刀は今は鞘だけだ。
非力な自分は武器もないままに、どこまで対抗できるだろう。
「何が目的だ」
「…俺は“色”を手にするんだ」
夢見るような口調に、絳攸は嫌悪感を覚えた。そして、それ以上に絶望も感じる。紅に染まりきれていない自分では、紅家の人間一人動かすことは出来ない。
きっと、あの人も。
「……」
それでも、声だけは平静を保とうとして、俯きかけた頭に力を込める。
「俺を使っても、手に入らないぞ」
「ふふ、あはははっ、そうだな、お前はそう思っていればいいさ」
せいぜい泣き喚いて助けを乞え、そう高らかに笑う男に、絳攸は自由を奪われた。手を後ろに捻られ、縛り付けられる。
絳攸は全身の力を抜いて、瞳を閉じた。抵抗するのも馬鹿らしい。
どうせ、自分では何も動かせない。自分ひとり犠牲になるだけで、あとは何も変わらずに日常が過ぎて行くのだ。
抵抗しないのをいいことに、鳩尾に拳が容赦なくめり込んだ。衝撃と痛みに、身体を折り曲げながら崩れ落ちる。頬に砂利の感触がした。
混濁する意識の裏側に、あの黒髪の後姿が映し出される。
不思議と、助けてくれ、とは思わなかった。
+++
楸瑛は街中を疾走していた。
遠征を切り上げて帰ってきたはいいが、飛び込んできた知らせは、絳攸の誘拐。彼は全力で捜索に当たらなければならなくなった。
出立前、劉輝に言われた言葉を思い出す。
————お前は、そのままで戦えるのか。
どうやら、心に隙があることを劉輝にまで看破されてしまったらしい。それとも、武具大会の話が既に回ってきているのか。
どちらにしろ、楸瑛に返せる言葉は一つだけだった。
「私は、……彼を私以外の色で染めるのが嫌なのですよ」
もう一度呟けば、それは水面に走る波紋のように、心に漣を作り出した。
自分の色で染められないのならば、せめて何の色にも染まらないように守りたい。
——お前だけが俺の特別じゃない……
たとえ唯一の特別ではなくても、彼の隣にありたい。そしていつかは彼の唯一に並びたい。そう願うのは自分勝手なのだろうか。
「…黎深殿、か」
彼を誘拐したのであるなら、よほど小者のではない限り、紅家に何らかの圧力を掛けたいのだろう。
それが分かるからこそ、劉輝は下手に手を打てなかった。
少数精鋭が得策だろうと、すぐに絳攸と縁の深い楸瑛の名が挙がったが、もちろん、劉輝はそれに反対した。危険が伴うものに将軍を遣わせることはできない。劉輝としては、紅家自身に一任することも考えていたのだが、楸瑛がそれを押し切った。
そして今、賊の砦が判明して、そこへ向かおうとしているのである。
絶対に無事であるとは言い切れないが、彼を武器として使うつもりならば危害を加えるということはないだろう。しかし、急ぐに越したことはない。
「待っていて」
きっと、私は結論を出して見せるから。
刻一刻と過ぎて行く時間。呼吸を整えると、楸瑛は、その砦の扉を蹴破って突入した。
作品名:貴方の色で私を染めてください 作家名:Kataru.(かたる)