貴方の色で私を染めてください
埃と黴臭い木材が、所狭しと並んだ倉庫の一角に、絳攸と犯人らしき男が座り込んでいた。
絳攸、と呼びかけるより早く、狭い倉庫内のどこに隠れていたのかと思うほどたくさんの刺客たちが襲いかかってきた。仕方なく楸瑛は敵を打ちのめして行く。水が流れるように閃く藍の衣。その鮮やかな動きは、決して敵を切るのではなく、峰うちにとどめている。
「甘いな、血を流さなきゃ面白くねえだろ」
心底この遊戯を楽しんでいる笑みが、倉庫然とした室内に響き渡る。
瞬く間に、倒れ込む男の輪ができ、その真ん中に汗一つかいていない楸瑛の姿があった。
切っ先を敵に向けると、男は鼻で笑って意識のない絳攸を引きずるように立ち上がった。その白い首に、歪んだ形の刀が押しつけられる。
「そこの、色男。こいつの命が惜しかったら、剣をすてな」
「……典型的だね」
「んだと、てめえ!」
「まあ、有効手段だと認めてあげてもいいけれど」
「ん、っ……楸、瑛? 楸瑛! なぜ貴様がここにいる!」
大きく揺さぶられて、やっと意識が回復したらしい絳攸は、男の腕の中で楸瑛の姿を確認すると、すぐに逃げ出そうと暴れまわった。しかし、噛み付こうが何をしようが何の解決にも繋がることはなかった。
「なぜ? それは酷い質問だね」
楸瑛がおとなしく剣を鞘に収めたところを見て、絳攸はいよいよ青ざめた。
「楸瑛…! だめだ、俺のことはいいから…!」
楸瑛が珍しく絳攸を睨んだ。
「そんな風に言わないで。それに、私は君が“紅い”から助けたいんじゃない。君だから助けにきたんだ」
静かに、花の彫られた剣が楸瑛の手から離れた。
かしゃん、と剣が床に落ちるまでの時間が、酷く長く感じられる。
ふ、と男が嘲笑した。
刹那。
「くっ…」
靴音、金属音、そして衝撃。遅れて響く、悲鳴。
「ひひっ、あんた、馬鹿だねえ」
何か生暖かいものが、自分の手を伝って滴り落ちて行く。
それが血なのだと理解するのにしばらくかかった。
「し、楸瑛…、楸瑛!」
痛みに麻痺する聴覚が、絳攸の叫びをぼんやりと聞く。
「美しい死に方をさせてやるよ。何がいい? 愛しいものに指を一本ずつ切り落とさせるか? それとも、内臓を食わせるか?」
首筋に、血で濡れた赤い刀身が押し付けられる。
愉悦を滲ませた笑いに、絳攸は身震いした。逃げたくても、腰が抜けてうごけない。
「や、めろ…! やめてくれ、楸瑛を離せ!」
「あぁん? この男がそんなに大事か?」
絳攸のほうへ身体を向けると、楸瑛の身体がその肩にもたれるようにして崩れ落ちる。
床に、血だまりが出来ていた。
「大事だとかそんなことは関係ない! 俺は、…そいつを失いたくないんだ!」
絳攸の叫びに、楸瑛が声無く笑った。
そうだ。自分は彼を守らなければならない。そう約束したのだった。
ここへ向かう前、彼の養い親が突然やってきた。そして、楸瑛の持つ短刀をさして言ったのだ。
——その刃の分は、貴様が守れ。だが、その他を選ぶのはお前ではない。
見事な意匠が施された短刀を、手にしっかりと握り締める。
よろめく足を踏ん張って、男へ短刀を向ける。
今なら、この血が流れても彼を汚すことはないだろう。
男に、短刀を深く突き立てる。肉を切り裂く感触が手から伝わってくる。
嫌な音をして口から漏れたどす黒い血が、楸瑛の肩を濡らした。
「て、…てめ、ぇ」
「残念だけれど、君にくれてやる命など持ち合わせていないからね」
どさり、と男の身体が楸瑛の作った血だまりの中へ倒れ込む。
金縛りにあったように、絳攸は一言も発することが出来なかったが、濡れたその音を聞いた瞬間、楸瑛、と名を呼んだ。初めて言葉を覚えた幼児のように、本当にそれしか言葉が出てこなかった。
「終わったよ、絳攸。帰ろうか」
「楸瑛…」
同じように、手を差し出してくる。
今度はその掌全体を絳攸は掴んだ。しっかりと握ると、楸瑛は立ち上がらせようとし………
「楸瑛?」
そのまま絳攸の胸の上へと倒れ込んだ。
荒い息が、頬を掠める。
焦ってわき腹を探れば、止まらずにあふれ出る血と、痛みを堪える小さなうめきが聞こえてきて、絳攸は楸瑛を揺さぶった。
「お前…、その傷…!」
「たいしたことないよ、疲れただけさ。…だってね、絳攸。あのままこいつを殺していたら、君がこいつの血に染まってしまうだろう? 私はそんなことは、許さないから…」
「もういい、分かった。だから喋るんじゃない」
少しでも楽な姿勢になるように、絳攸は自らの膝に楸瑛の頭を乗せた。
思わぬ膝枕に、楸瑛は嬉しそうに笑った。
「……私の中にも、こんな、赤があるんだね」
「喋るなといっている」
「これなら、君も染まってくれるかな」
「黙れ!」
一喝し、それでも不満げな顔をする楸瑛に、絳攸は口付けを仕掛けた。うるさい口は、こうして塞げばいい。血と泥の味がした。
「俺という存在にお前は価値を与えてくれた。俺という個の存在を、肯定してくれた。お前の隣にいると、全てを預けられた。……でも、それではだめだと思った。だから、俺はお前と距離を置いてきた。なのに、お前は離れたと思ったらふらっと現れるし、近づいたと思ったらいきなり離れていってしまう」
絳攸は楸瑛の手をもう一度握りなおした。今度は、指一本だけではなく、掌全体を自らのそれで包み込む。あたたかい。
「自分でも矛盾しているとわかっている。お前を拒絶したこの口で、……今度は一緒にいてくれと頼んでいるのだから」
賊と交戦している最中、心臓が破裂するのではないかと思うほど心臓が鼓動を激しく打っていた。
「お前が、いなくなるんじゃないかと思った」
透明な液体が頬を流れて行く。
今分かった。楸瑛が本当にいなくなってしまいそうで怖かったのだ。
「ごめんね…。でも、私はずっと君の側にいるから」
だから泣かないで。
楸瑛の血に濡れた手が絳攸の頬を流れる涙を拭う。
「俺は……まだ、何も分からない。お前が結論を出せと迫っても、答えを一切用意できない」
「うん、分かってる」
「それでも?」
「うん。…君を、愛している」
愛している。
そんな言葉を聞いたのは初めてのような気がして、絳攸は赤くなった。
「お前も馬鹿だな、俺みたいなのを選ぶんだから」
「おや、その馬鹿を膝に乗せているのは誰だい?」
「非常事態だからだ! 他意はない!」
お互いに、笑うと傷に響くが、笑わずに入られなかった。
遠く、たくさんの足音がこちらを目指しているように聞こえた。突入からある程度の時間が経って戻ってこなかったら強制的に侵入するように伝言しておいたのだ。きっと、もうすぐこちらを見つけてくれるだろう。
「…上手く言葉に出来ないが……」
恥じ入るような絳攸の様子に、楸瑛が、小さく笑った。
「言葉なんていらないよ、絳攸。ただ……」
ただ、そっと唇を塞ぐだけで良い。
三度目の口付けは、兵が痺れを切らして楸瑛の名を呼ぶまで続いた。
絳攸の肩を借りて立ち上がった楸瑛は、絳攸の手を握った後、耳にもう一囁きかける。
「愛しているよ」
それでもやはり、絳攸はその手を離しはしなかった。
作品名:貴方の色で私を染めてください 作家名:Kataru.(かたる)