神様のギャンブル
そう小さく囁いて、両手が塞がっている静雄の脇腹に臨也がそっと手を添える。その手の中には周りには見えないように小型のナイフが隠されていることを、静雄は知っていた。しかし、そんなちっぽけな武器ではこの怒りは収まらない。今すぐに目の前の男を醜い肉塊に変えてしまいたくて疼く両腕の筋肉を、しかし静雄は全力で抑えるしかなかった。臨也を殺さないためではない。帝人の将来を、潰さない為に。
「嫌なら俺じゃなくて、君の弟に直接交渉した方が良いんじゃないのか? 羽島幽平くん…いや、平和島幽くんに、しっかり企業側からの提案を通すようにって」
「……え、…?」
臨也の小さい声を聞き逃さずに、帝人が驚いたように目を丸くする。
弟、と。何もかもを知っている臨也は何の感慨もなく口にしたが、帝人にしてみたらビッグ過ぎるニュースである筈だ。静雄は、折れそうな程に強く歯を噛み締めて、臨也の襟から乱暴に手を離した。そして机に置いてあったサングラスと煙草を手に取ると、律儀に一口も飲んでいないカフェオレ代を机の上にばらまいて、二人には一瞥もくれずにファミレスを後にする。雰囲気に圧倒されて、帝人は勿論、店の従業員でさえ声を掛けられない。特徴的なそのバーテン男の後ろ姿が雑踏に紛れて消えてしまうまで、ファミレス内は静寂に包まれていた。
「…じゃあ、シズちゃんは《ダラーズ》を抜けるって事で良いのかな。良いんだよねえ、いや、スッキリだね」
そんな痛い沈黙を、臨也がのほほんとブチ破る。
「という訳で…これからは二人で宜しく、帝人くん」
いつの間にか元のように座って人の良い笑みを浮かべながら手を差し出してくる臨也を、帝人はまだ混乱から覚めない目で呆然と見詰める。
……と、
──だらーず、って、もしかして《ダラーズ》?
──うっそ、じゃあ、今のバーテンマジで平和島静雄?
──やだっ、麗しの臨也様も! サイン貰いたいー!
──えー、私、帝人ちゃんの方が可愛くて良いなあ。
──つか、静雄、抜けるって言って言わなかったか?
ちらほらと広がり始めたざわめきが、いつの間にかファミレス全体を包み込む。帝人が気付いたときには、周囲の視線は従業員と言わず客と言わず、全て自分たち二人へと向かっていた。
「……い、ざや…さん」
「うん、ちょっと不味いね」
戸惑ったような帝人の言葉に、臨也は苦い表情をして頷いて見せる。しかし、その実、臨也の心の中はわくわくとした気持ちで一杯だった。逃げようか、と一言唇だけで帝人へと囁きかけた臨也は安心させるように一つウインクをして、代金をそっと机の上に忍ばせた帝人と共にファミレスを駆け出す。ファンらしき人影が数人携帯を此方へ向けて、写真を撮る気なのだろうか追い掛けて来たが、細い路地をいくつか曲がればすぐに殆どの追っ手は居なくなってしまった。
自分の後ろに息を切らしながら必死に追いついてこようとする帝人を肩越しに振り返って、臨也はにやりと笑みを浮かべる。
臨也は、分かっていた。実は帝人が全てを知っているのだという事を、そして、何も知らない振りをして別々に自分と静雄の二人をファミレスに呼びだした事を。
その証拠に、今、帝人は急な運動に眉を寄せながらも、口元だけは実に楽しそうに笑っている。
ふふ、と臨也の口から吐息に混ざって抑えきれない笑みが漏れる。本当に、本当に賢しく楽しい子供だ。
しかし、知っているのはそれだけ。二人を無理矢理呼びだしてまで帝人が二人に、《ダラーズ》に、或いはファミレスの客に、何をしたかったのかは、臨也には想像するしかない。
もういいかと臨也が立ち止まると、完全に息を乱してへろへろになった帝人が少し遅れて臨也の傍へと寄ってくる。
「だ、だいじょ、ぶ、…ですかね…」
「きちんと撒けたみたいだから大丈夫だよ。帝人くんこそ大丈夫?」
盛大に喘いだせいか掠れた声で平気だと応える帝人に微笑んだ臨也は、雑踏に埋め尽くされた池袋の街並みに視線を移しながら、もうすぐ雨が降りそうだ、と小さく呟きを落とした。呟きは、雲一つない快晴の空へと静かに霧散していく。
それはそれは、嬉しそうな響きだけを残して。
+ + +
みし、とパイプベッドが倒れ込む体重を支えきれずに悲鳴を上げる。熱いシャワーを浴びて、未だ火照ったままの身体にジーンズだけを引っかけた格好で、静雄は天井へと深く紫煙を吐き出した。その煙の中に、帝人の屈託のない笑顔が見えた気がして、静雄は慌てて目を深く瞑る。
昨夜、それも早朝に近い深夜、突然弟の幽から電話があったときはびっくりした。普段殆ど感情を表に出さない弟にしては珍しく心なしか興奮したような口調で、一緒に仕事が出来るかもしれない、と告げてきた声を、今でも静雄はまざまざと思い出せる。嬉しかったからではない。幽の告げた内容に咄嗟に浮かんだ感情は、確かに怒りだった。
「…やっぱり、…アイツが事務所に無理言って…」
昼間、嬉しくも何ともないが、偶然ファミレスで臨也に告げられた内容が静雄の心の中に強く疑念を残していた。
幽が、自分と仕事を共にしたいからと、メジャーでは無名の筈の《ダラーズ》を無理矢理指名した。…のではないかと。
それは、つまり、《ダラーズ》の音楽性云々より『平和島静雄』を幽が主張したという事に他ならないということであって。静雄が心の中で常に危惧していた、自分より先に芸能界で脚光を浴びている羽島幽平の人気の余波によって、正確に言えば平和島静雄が羽島幽平の兄だという事実のみによって《ダラーズ》までもが脚光を浴び始める、という、実力とは全く関係の無い所で物事が進んでしまう事態を引き起こすきっかけになるのではないだろうか。
ぎりっ、と静雄は銜えた煙草のフィルターを噛み潰した。はらはらと白い灰が裸の胸へと降りかかる。そのまま、静雄は燃える煙草を握りしめた。じゅ、と煙草の火が消える。痛みは感じなかった。それよりも、思考が全てだった。
それは、あってはならない事態だ。絶対に。絶対に。
閉じられていた静雄の瞳が力強く開かれる。上半身の筋肉のバネのような動きのみで身体を起こすと、静雄は静かに固定電話の受話器を手に取った。
「……《ダラーズ》は、ンな程度のバンドじゃねえんだよ」
手慣れた様子で、静雄の指先がボタンをプッシュし始めた。
+ + +
臨也は上機嫌だった。
メジャーデビュー用、否、CM用の歌詞はスラスラと書き上がり、一週間前に帝人へとFAX送信済みで、今日は早速曲が出来上がったという帝人と都内の貸しスタジオにて最終調整に入る予定なのだ。
タクシーに乗ってスタジオへと向かいながら、臨也はポケットから取り出した携帯でネットをうろつき回って《ダラーズ》絡みの情報に目を通していく。流石にメジャー進出するという話は表だって公表しては居ないので憶測のようなたれ込みばかりであったが、静雄脱退の噂は有る程度の信憑性を持ってネット内外を飛び交っていた。
全てが臨也の機嫌を晴れ晴れとしたものにしていく。
「……さん……お客さん、着きましたよ」
作品名:神様のギャンブル 作家名:Kataru.(かたる)