祭囃子は聞こえない
だがようやく決心がついたのか、二人の顔を交互に見ると頭を下げた。
「…すみません。お世話になります」
「おう」
「うん」
そして再び上げられた顔には、もう先程までのような不安げな色はなく、二人に対する感謝と安堵の表情が浮かんでいた。
「……寝たか?」
「…うん、大分疲れてたみたい」
窺う為に僅かに空けていたドアの隙間をゆっくりと閉じると、幽は静雄が座っているソファーに歩み寄った。
「気丈に振舞ってたけど、やっぱり相当参ってたみたいだね」
「そりゃあ、あんだけの事されれば寝不足にもなるだろ」
「うん、そうだね」
二人は先程帝人から聞いた話を思い出し、目を伏せた。
話を聞いている間、帝人の目元にはうっすらと隈が浮かんでおり、それが二人の怒りを増長させた。
「許せねぇな」
「うん」
静まり返った部屋に、二人の低い声が落とされる。
だが、それきり部屋は静寂に包まれ、時計の針だけが音を紡いだ。
カチカチと時を刻む音が響く中、時計の針はゆっくりと、日付を跨いだ。
――カチリ。
そして二人は行動を開始した。
日曜、午後8時過ぎ。
玄関を開ける音に帝人は肩を揺らした。
「……!」
急いで玄関に向かうと、靴を脱ぐ幽がいた。
「おかえりなさい、幽さん」
「ただいま、帝人君」
無表情ながらも優しい声色に、ほっと表情を綻ばせる帝人。
朝から出かけていた二人に心配を募らせていたのだ。
静雄はまだ帰ってこないが、幽の無事を確認出来てほっとしていた。
そしてその様子に目を細める幽。
しかし何か思いついたのか、ああ、と声を上げると無表情の中に柔らかい色を滲ませた。
「なんかこういうのっていいね」
「?」
「帝人君に『おかえりなさい』って言ってもらえるの」
「えっ」
思わぬ言葉に気の抜けた声が上がる。
どう返していいのか分からず口をパクパクさせる帝人に、幽は黙って視線を送った。
静雄が貸したシャツは帝人には大きく、袖が余っており、大きく開かれた胸元からは鎖骨が覗いていた。
ほんのり赤くさせた顔と相まって大変可愛らしい。
「あ、あの…幽さん…?」
「え、ああ。ごめん」
控えめにかけられた声に意識を戻す。
そんな幽の様子には気づいていないのか、帝人は不思議そうに首を傾げた。
「とにかく無事でよかったです。あ、あと…それと、静雄さんはまだ…帰ってこないんですか?」
「うん、まだ無理かな。でも大丈夫、多分夜中に帰ってくるはずだから。何も心配ないよ」
「そうですか」
幽の言葉は気休めではなく、確固たる事実のようで、帝人は安心して頷くことが出来た。
「よし、じゃあ夕ご飯にしようか。出来合い物で悪いんだけどね」
「い、いえ!お気になさらず…!」
恐縮する帝人に、幽は軽く肩を竦めてみせる。
そしてリビングに向かう途中に、ある『提案』をした。
「…そうだ、帝人君。お願いがあるんだけど…」
「?はい」
――同時刻、竜ヶ峰帝人のアパート前。
薄気味悪い声が、人通りの少ない路地から聞こえてきた。
「…おかしいなぁ……おかしい。何で昨日から帰ってこないんだ……やっぱり昨日まかれたのが痛かったなぁ……困った、困ったぞ。……ああ……人をこんなに困らせるなんて帝人くんはいけない子だ……いけない……おしおきしなくちゃなぁ……おしおき……ふ、ふふ…へへ……」
ぶつぶつと独り言を喋りながら、薄気味悪い声の主である中年男性が帝人の住むアパートを凝視していた。
その体つきは意外にもがっしりとしており、何かスポーツでもやっていそうな筋肉のつき方だ。
だがブロック塀の内側に身を縮こまらせ、ぼそぼそと独り言を喋る様は、異様であり情けなくもあった。
男性の独り言はまだまだ続くかと思われたが、ふいに男は足元に置いていたバッグを肩にかけると、ブロック塀から身を離した。
「ふう……仕方ない…。今日は帝人くんの部屋にお邪魔して待ってようかな……ふふ……へ…へ……帝人くん驚くだろうなぁ……ふふ…」
うっとりと目を細める男。
その顔には下卑た笑みが浮かんでおり、細めた瞳の奥にある妖しい光が男の異常性を際立たせていた。
そのまま男は塀から離れ、帝人の部屋に向かうかと思われた。
――が、しかし。
「―っ!!?」
男の歩みは一瞬で止められた。
歩みを止めたのは、静かな路地に似つかわしくない大音。
周りが静まり返っていただけによく響いた。
音の出所は男が先程まで身を寄せていたブロック塀。
それが対物用ライフルを着弾させたかのように爆ぜた。
崩れるなんて生易しいものではない。本当に”爆ぜた”のだ。
だが男が驚いたのは音にだけではなかった、その大音の中心から”人の腕”が出ていたからだ。
伸ばされた長い腕は傷一つなく、それだけで異様さを醸し出している。
そんな腕が伸ばされ、爆ぜたブロック塀の残骸が頬を掠めようとも、男は動かなかった。
――否、動けなかった。
伸ばされた腕が男の首を掴み、逃げようにも逃げられない。
「…がっ…ぁ…!」
喉に絡みつく指が、容赦なく男の首を締め上げる。
男は酸素を求め口を開閉させるが、恐ろしい力で締め上げられる為か、気管からは空気が抜ける音しかしない。
そしてもう一度、同じような大音が男の鼓膜を叩いた。
霞む目が捉えたのは、すらりとした長い足だった。
手で、足で、ブロック塀を破壊した人物は男を捕らえる手を離さぬまま、塀の残骸と土煙の中から姿を現した。
「……ぁ…が…っ」
「よぉ、おっさん」
現れたのはバーテン服を纏った長身の青年。
とても素手で塀を破壊出来るようには見えない。しかし自身を掴む腕が、この青年がやったのだと雄弁に物語っていた。
バーテン服の青年は掴んだ男を片手で持ち上げると、口元を歪ませた。
「ストーカーとは感心しねぇなぁ、おっさん」
「…がっ!ぁ…ぐっ…!」
苛立ちと嫌悪感を隠しもせず口から吐き出すと、青年は締め上げる力を倍加させた。
おおよそ人の力とは思えない膂力を感じながら、男はなんとか逃れようと浮いた足先をバタバタと動かす。
――苦しい、苦しい、痛い。酸素が欲しい。
しかし指で掻き毟ろうが、蹴りつけようが、青年の力は緩まない。まるで万力で締め上げられているかのようだった。
――あ。
徐々に霞む意識の中、男はあることを思い出す。
そうだ。何故今まで忘れていたのか。
この短時間の中で起こった出来事は、男の脳を麻痺させ、想像以上に混乱させていたらしい。
そして今、ようやく思い出す。目の前の人物が誰なのかを。
――そうだ!こいつは…こいつは!
だがその名を口内で叫ぶ前に、男の意識は暗い闇に飲み込まれた。
ゆっくりと落ちていく意識。このまま男の意識は消えゆくかと思われた。
が、目の前の青年がそれを良しとはしなかった。
「おっと」
「――…っ!!」
軽い言葉と共に、男の意識が無理やり引き戻される。
男の命を繋ぎ止めたのは、四肢が千切れんばかりの強烈な痛みだった。
「―…っ!…うっっ!」
肺から強制的に空気が排出される。
圧迫された胸部は痛みを訴え、瞳には生理的な涙が浮かんだ。
「…が…ぁっ!……げほっ!……う…っ!」
急速に解放された喉は勢いよく空気を吸い込み、肺に酸素を送り込んだ。