まだらの目
俺は、機嫌よくぺらぺらと喋る臨也を見た。やはりどこかで見たことのある目をしている。もう少しで思い出せそうだが、何だったろう。俺は一瞬注意を忘れて、じっと臨也の目を見た。臨也はソファの背もたれに腰掛けているので、少し見下ろす形になった。
「そう思ったんですけど、沙樹が悲しむのでやめました」
俺は、確かに引っかかる記憶を手繰り寄せながら言った。
「確かに、身寄りも無い状態で彼氏も少年院じゃ、泣きっ面に蜂か」
軽く笑いを漏らしながら臨也が言った。そうじゃない。そうじゃなくて。
やっと、頭の中で映像が結ばれた。
「あんたが死んだら悲しむって言ってるんですよ、お父さん」
臨也は、無防備に驚いた顔を晒した。滑らかに動かし続けていた口は半開きのまま、目を瞠る。一瞬の静寂。俺は、殴ったときよりもよほど、胸が空く思いがした。
臨也の目は、沙樹に似ていた。悪意もなく、欲もなく、一心に好意を捧げるような。沙樹が、臨也のことを話すときの目だ。
「沙樹が言ってましたよ? 臨也さんのこと、お父さんだって。だから、あんまり馬鹿なことしないで下さい。そうでなくても、あんた元々最低なんですから、既に泣きっ面に蜂ですよ」
きょとんとしていた臨也は、ようやく意味を呑み込んだようだ。
「沙樹か。びっくりした、君に言われたのかと思った」
「間に合ってます」
俺が最大限に嫌な顔をすると、臨也は堰を切ったように笑い出した。
「だよねぇ。はは、びっくりした! 君、今日は冴えてるねぇ。すごく愛しいよ」
「……気持ち悪いです」
「だよねぇ。ふふ、俺もそう思う」
臨也は何がおかしいのか、一人で笑い続ける。かなり不気味な様子だった。臨也の異常な雰囲気に引きずり込まれそうな錯覚を覚えて、俺は思わず一歩退いた。
「ねぇ、ちょっと嫌な話をしようか」
臨也は笑いながら俺を見た。目尻に涙さえ浮かべている。
「嫌です」
「いいじゃない、聞いてよ。君、こんなに自分勝手に振舞っておいて、それを許してあげようって言うんだから、嫌な話の一つや二つ、聞いたっていいだろう?」
俺の返事を待たずに、臨也は勝手に話し始めた。
臨也の話を聞きながら、俺はぼんやりと、今までのことを思い出していた。中学生だった頃のこと、高校にいた頃のこと、その後のこと、今のこと。臨也の話を聞いていると、その一つ一つが別の形に見えてくる。今ここにいるのが必然だったような気がしてくるのだ。
本当に臨也は、人を騙すのが上手い。
臨也は長い演説を終えると、一つ息を吐いた。一度床に落とされた視線が、再び俺に合わされる。そして、苦笑してこう締め括った。
「沙樹に言っといて。お父さんじゃなくてお兄さんにしてって」
苦笑する臨也を見て、俺はなけなしの精神力を総動員して、笑って見せた。
「臨也さんも、そろそろ子供の一人ぐらい、いてもいいんじゃないですか?」
「……正臣君」
臨也は微笑んだ。見た目の良さを最大限に生かしたアルカイックスマイル。反吐が出そうだ。
「そういえば結婚式の招待状が来てましたけど、臨也さんって結婚しないんですか?」
「………………」
「………………」
「………………今日は特別に、許してあげよう。……さっさと帰れ!」
臨也が言い切る前に、俺は踵を返した。
俺の逃げ癖は、直ってなんかいない。ただ、一番恐ろしいものから逃げるだけだ。
臨也の事務所を出ると、外はもうすっかり夜だった。とはいえ、街灯が多いので十分明るい。振り返って事務所を見上げると、明かりの点いた事務所の窓際に、主不在の椅子がぽつんと佇んでいた。
俺は笑い出したい気分だった。明日の朝には後悔している気がするが、今だけは開放感に浸りたい。こらえきれずに、俯いて笑いを漏らす。すれ違う人々にはさぞ不審に思われただろうけど、今日だけだから許してもらいたい。
にやけながら歩いていたら、不意に携帯の着信が鳴った。タイミングを見計らったかのように、液晶は沙樹の名を示していた。俺は躊躇無く通話ボタンを押す。
「もしもーし?」
『あ、正臣? あのね、今狩沢さんの家に居るんだけど、お泊りしてもいいかな」
「……そりゃいいけど、お泊り?」
『なんかね、女子だけでゲーム大会やることになったの」
「へぇー楽しそう! 誰が来てんの?」
『えっとね、今杏里ちゃんと美香ちゃんがいて、これからセルティさんと九瑠璃ちゃんと舞流ちゃんが来るよ』
「杏里も来てるんだ」
『うん。今お菓子買いに行ってる』
「そっか。楽しそうだな」
『男子もやればいいじゃん』
「……男だけなんてつまらん」
『ふふ、そっか。では、お留守番お願いします』
「お願いされます」
『じゃあね』
「おう」
俺は通話の切れた携帯を見て、しばらく思案した。そして進行方向を変えながら、着信履歴の一番上を押す。沙樹はすぐに出た。
『どしたの?』
「いや、一応なんだけど、俺も今日いないわ」
『え? どこ行くの?』
「帝人んとこ。なんかあいつがまたいらんことしてたっぽいから、様子見てくる。そんで帰るのめんどいから泊まる」
『あいつって、臨也さん? 忙しくて東京湾の藻屑になりそうなんじゃなかったっけ?』
「藻屑になってもヘドロになっても、あの人のアレは直んねぇよ」
『……それもそうか。それで、帝人君には連絡したのかな?』
「もちろん、これから」
『ちゃんと電話してから行くんだよ』
「はーい」
『怪しいなぁ。親しき仲にも礼儀ありだよ?』
「大丈夫だって! じゃあな。皆によろしく」
『うん。じゃあね』
通話を切って、駅に向かう。俺は結局、電話はしなかった。帝人は、どうせ今日もパソコンにかじりついているに違いないのだから。
小言を言いながらも招き入れてくれる親友の姿を思い浮かべながら、俺は夜道を急いだ。かつてのチャットでのように、今日の武勇伝を聞かせてやるために。
(お前にとって、あいつって何?)
(――――お父さん)
(……は?)
(お父さんだよ)
沙樹、お前の親父は、揃いも揃ってクズばかりだよ。
臨也は、自分のデスクに着き、ことさらゆっくりと息を吐いた。既視感を覚えながら、殴られて変色した部分を撫でる。窓から夜景を眺めながら、誰にともなしに呟いた。
「反抗期……かなぁ……?」