嵐の放課後に
#2
【語り部:日野貞夫】
つい昨日の話なんだけどな。
放課後、部室に忘れ物を取りに行ったんだよ。
何を忘れたかと言えば、今日提出する事になっていた数学の課題だ。
思えば、そんな大事な物を部室に置いていった事が、そもそものケチのつきはじめだったのかもしれない。
ああ、もちろん台風が来るから早く帰らなきゃいけないことはわかっていたさ。
うちの担任にも、遅くまで残るなと念を押されていたしな。
だから、忘れ物さえ回収したらすぐに帰るつもりだったんだよ──少なくとも、部室に入るまではな。
だが、確かに机の中に突っ込んだ筈の課題プリントは、あろうことか忽然と消えていた。
──そこに入れたと思ったのは、俺の記憶違いだったのか?
──それとも、誰かに盗まれたんだろうか。
──まさか、他人の課題を欲しがる奴なんている筈がない。
俺はとりあえず、部室の中を隈なく探してみる事にした。
棚の中……無い。
資料の間……無い。
ごみ箱……無い。
実を言うと、目安箱の中まで探したんだぜ。
まあ、当然あるわけないんだけどな。
──大方、ごみと間違えて捨てられてしまったんだろう。帰りに清瀬の家にでも寄って、コピーさせてもらうしかないな。
探し疲れた俺は、そう考えて帰ることにしたんだ。
閉め切った窓の向こうでは風が唸り始めていた。
廊下には既に人影もなく、残っている生徒は俺ひとりなんじゃないかと思うくらい静まりかえっていたよ。
鍵を返しに職員室に寄ると、まだ数人の教師がいたな。もっとも、全員が帰り支度の最中だった。
「あら、日野君。まだ残っていたの。早く帰りなさい」
退室しようとしたところで、生活指導部のシンババに声をかけられた。
普段なら愛想を振り撒いてお世辞のひとつやふたつ並べるところだけど、あの時は焦っていたからな。手短に挨拶を済ませて、そのまま玄関に向かったよ。
「あっ、日野先輩!」
坂上に鉢合わせたのは、まさにその時だった。
あいつは、この季節だってのに汗だくだったな。髪は乱れていたし、制服は所々埃で汚れていた。
グリム童話の灰かぶりみたいだったぜ、あれは。
「まだ居残られてたんですね」
「お前こそ、一体何をしてたんだ?」
「それは……」
当然の疑問を投げ掛けると、坂上は一瞬口ごもった。そして、躊躇いがちに事情を明かしたんだ。
「あの、ポヘを探しているんです」
「……は?」
「話したことありましたよね?僕の飼い犬です。いつもはそんなことないのに、今朝はなかなか僕から離れようとしなくて、学校までついてきてしまって……仕方ないからタオルを被せて部室まで連れて行って、可哀相だけど柱に繋いでおいたんです。でも、僕が授業を受けている間にいなくなってしまって……昼休みまでは部室にいたのに……」
「それで、学校の中を探していたのか。けど、校内で犬がうろうろしていたら、普通もっと騒ぎになっているんじゃないのか?少なくとも俺はそんな話は聞いてないぞ。きっと、今頃は家に帰ってるさ」
「ポヘは雨が苦手なんです。こんな天気の悪い日に、外に出ようとするなんてありえませんよ」
「でも、朝はついてきたんだろ?」
「それは、僕がいたからで……とにかく、ポヘはまだこの学校にいる筈なんです。それじゃあ、ポヘを探さなきゃいけないので、僕はこれで」
坂上はそう言うと、また慌ただしく駆け出した。あんなに取り乱した坂上は、はじめて見たな。
俺も大型犬を飼っているんだが、あそこまで犬バカじゃない。
「待てよ、坂上。俺も一緒に探してやる」
今思えば、あの時に帰っちまえばよかったんだよな。けど、放っておけなかった。
お前が俺の立場でも、そうしたんじゃないか?大事な後輩だしな。
ポヘがみつからず、あいつひとり学校に取り残されて、あの台風で帰ることも出来ずに途方にくれている様を想像してみろよ。……哀れ過ぎるだろ。
あの状態の坂上に遭遇したら、誰だって手を差しのべてやりたくなるさ。俺が特別にあいつを可愛がっているからじゃない筈だ。
──とにかく俺は坂上を呼び止めて、手伝いを申し出た。振り返ったあいつは、びっくりしていたな。
「いいんですか?」
「お前ひとり残していく方が心配だからな」
「……ありがとうございます」
坂上は控えめに笑った。迷惑をかけて申し訳ないと思いながらも、俺の申し出が嬉しかったんだろうな。
この広い校舎で、動き回る犬一匹を探すなんて気の遠くなるような作業だ。おまけに、外には既に強風が吹き荒れていた。ポヘを見つけ出せても、今度はあの中を帰らなきゃならない。本当は心細かったんだろうさ。
「今までは何処を探したんだ?」
「部室棟は全室確認しました。ほとんど鍵がかかっていましたけど、それならポヘも入れないだろうし」
「……ちょっと待てよ坂上。じゃあ、お前は昼休みに部室を出た後、鍵をかけなかったのか?」
部室に鍵がかかっていたなら、ポヘが単独で脱出するのは不可能だ。
何を言いたいかわかるか?
もしそうなら、ポヘが人為的に連れ去られた可能性があるだろ。
「それが、よく覚えてないんです。かけたと思っていたんですけど……もしかしたらかけ忘れたのかも」
坂上の返答は、なんともはっきりしないもんだった。
正直言って呆れたな。
俺はあからさまに深い溜息をついた。坂上はそれだけで畏縮しちまったよ。あいつ、結構気遣いだからな。人の表情や態度の変化を、敏感に察してしまう。しかも、それを勝手に悪い方に解釈して落ち込むのさ。損な性格だよな。
お前も、今度機会があったら一歩引いて観察してみるといい。些細な事で相手とすれ違って落ち込むあいつを、度々見られると思うぜ。
あそこまで不器用だと、かえって同情するよなぁ。
庇護欲っていうのか?ついつい手を出しちまう。
そうすると坂上は、素直に感謝するわけだ。あの子犬みたいな目に見上げられると少し複雑だよ。
ああ、逆に虐めてやりたくなる時もあるな。そういう場面しか見たことがないって?
……そりゃ、お前があまり部に来ないからじゃないのか?
とにかく俺は、鍵をかけ忘れたかもしれない坂上を責めはしなかった。疑わしきは罰せずだ。習慣で何気なくやっている行動なら、はっきり覚えてない事もあるだろ。確かに鍵をかけていたとしても、後になって不安になった経験が、お前にもある筈だ。
俺はな、坂上が鍵をかけたかどうか覚えていなかったことに呆れたわけじゃないんだぜ。
あいつ自身が自分の言動に自信と責任を持っていない事にがっかりしたのさ。
「……わかった。とりあえず一階から手分けして探そう」
俺は、落ち込んで俯いている坂上の頭を軽く撫でてやりながらそう言った。