嵐の放課後に
#4
黒木が満月の夜になると人を襲って食う食人鬼だって事は、俺が坂上に話したんだ。
これはただの噂じゃない。確認済みの事実だからな……。
どうやって確認したのかって?見たんだよ、黒木が宿直室で料理しているところをな。ま、その時の話はまた別の機会にしてやるさ。
腕時計を確認すれば、時刻は十七時過ぎ。この季節だからな、夜と言えなくもなかった。しかも上空には厚い雲が渦巻いていて、月なんて見えやしない。
結局確信が持てなかった俺達は、宿直室の前を音を立てないように慎重に素通りした。
俺達がプールに目をつけたのは、プールそのものより、更衣室が怪しいと睨んだからだ。
あそこには、ドアが甘くなってきちんと閉じないロッカーもあるだろ?あれなら犬でも簡単に入り込めるからな。
「ポヘ!いるなら出ておいで!出てこれないなら返事して!」
先に男子更衣室に入った坂上は、キョロキョロしながらそう呼びかけた。まあ、言葉が通じていなくても坂上の声が聞こえればポヘは返事をするだろう。離れがたいほど懐いていたんだしな。
一応ロッカーを全て開けて確かめたが、ポヘはいなかった。そこで俺達は女子更衣室に向かった。こういう機会でもないと足を踏み入れない場所だよな。
「うわっ!日野先輩、床が……!」
更衣室に入った途端、坂上は声をあげた。床が水浸しだったからさ。もちろん床下浸水じゃない。その水は、ある特定のロッカーからひたひたと零れ出してひろがったものだった。
その時俺の頭によぎったのは、坂上は部室の鍵をしっかりかけていたんじゃないか、ということだった。
ポヘが人為的に連れ去られた可能性もある事を思い出したのさ。
「まさか、ポヘが……」
俺は二年の荒井から聞いたことがあった。動物の命を何とも思わずに殺している、ある男子生徒の話だ。
そういう奴が新聞部でポヘを見つけて連れ去り、プールに浸けて溺死させ、死体の処理に困ってロッカーに突っ込んだ……有り得ない話じゃないだろ?
「そんなっ!ポヘっ……」
俺の呟きを聞いた坂上は血相を変えて、そのロッカーを勢いよく開け放った。だがそこにいたのは……ポヘじゃなかったんだ。
濡れた髪、
水を含んで変色した身体、
生臭い匂いを纏った、女。
学校中に響くかという悲鳴を上げて、俺達は逃げ出した。
ああ、うっかり忘れていたよ。ロッカーに棲みついた瀬戸裕子の話。あんなの、ただの噂だろうと思っていたしな。
……本当にいたんだな。
幸い俺達の悲鳴は雨風の唸りに掻き消されて、思ったほど響いてはいなかったらしい。瀬戸裕子が追い掛けてくる事もなければ、黒木が駆け付けてくるということもなく、俺達はひとまずホッと胸を撫でおろした。
──ポヘの事は諦めて、もう帰らないか。
喉元まで出かかった言葉を、俺は飲み込んだよ。言える雰囲気じゃなかったし、その時外に出たら無事に帰れる気がしなかった。
なにより坂上がそれに頷く筈がない。夜の学校にポヘを置いたまま自分だけ家に帰るなんて、あいつには考えられないだろう。
下手にそんなことを提案して、坂上の機嫌を損ねることはないからな。
だから俺は、かわりにこう言った。
「講堂を探してみないか」
「そ、そうですね」
坂上はまださっきのショックから立ち直れていなかったみたいで、ひきつった笑顔で俺を見上げた。明らかに無理をしているのがわかって痛々しかったな、あれは。
俺は、思わずあいつの頭に手を伸ばして撫でていたよ。泣いている子どもをあやすように優しく、何度も何度も。
──考えてみれば、俺はそうすることによって自分自身も安らぎを得ていた。いや、はじめからあいつの為じゃなくて、自分の為にああしたのかもしれない。
結局、次々と起こる心霊現象に俺も参っていたのさ。
講堂についた俺達は、お互いを確認できる範囲で二手に分かれ、ポヘを探そうとした。
その時だ。何処からともなく、男の声が聞こえてきたんだ。
「隣の客はよくきゃくくっ……ダメだ、また噛んだ!」
「あおまきがみあかまきがみきまきまきっ……またっ!」
「かえるぴょこぴょこみぴょこぽこ……ぐぁっ!」
そいつは、講堂中に響く声で早口言葉の練習をしていた。噛みまくってたけどな。
だが、姿が見えないんだ。俺達は顔を見合わせたよ。
「な、何でしょうか、あれ……」
「滑舌の悪さが原因で主役から降板させられた演劇部員がそれを苦にして講堂で自殺し、以来よなよな講堂で練習する声が聞こえる」
「えぇっ!?」
「……という話は聞いたことがないな。それにこの声は聞き覚えがある」
「なんだ……日野先輩、驚かせないで下さいよ」
少しからかってやったら、坂上は頬を膨らませて抗議した。けど、それで緊張が緩んだんだろうな。声の正体を確かめようと、自分から率先して舞台に上がっていった。
「すみません、誰かいるんですか?」
「えっ?」
坂上が呼びかけると、すぐに反応があった。そして舞台の袖の方から、見覚えのある男子生徒が顔を出したよ。
「ええと、君は誰?……ん?そこにいるのは日野じゃないか。どうしたんだ?」
「それはこっちの科白だな神奈川。こんな時間まで残って自主練か?」
そう、神奈川圭吾。今度の文化祭で岩下の相手役をつとめる男だよ。お前も知っての通り、演劇部員の癖に絶望的に滑舌が悪いんだよな。
だが、あいつの演劇に対する情熱は中々大したもんだと思うぜ。努力を重ねて、あの舌足らずをカバーしてあまりある程の演技力を身につけたんだからな。そうでもなきゃあのシンババが、自ら脚本を手掛けた作品の主役にあいつを抜擢するわけがない。
「こんな時間って……今何時だ?」
「十七時半を過ぎたところだ」
「なんだ。それじゃまだそんなに遅くないじゃないか」
「あの、ニュース見てないんですか?今日は夕方から台風が上陸するって」
神奈川は一瞬きょとんとしたが、すぐに納得したように笑ったよ。
「ああ、そうか。そうだった。だから今日は、練習がないんだよなぁ……」
残念そうに呟くと、あいつはそのまま掻き消えた。
「うぉっ!?」
「えっ!?」
腰が抜けるかと思ったぜ、あの時は。
「か、神奈川さんって……まさか」
死んでるんじゃないか。坂上がそう思うのも、無理はないよな。
結論から言うと、神奈川は生きてるよ。今朝見たらぴんぴんしてたぜ。
ってことは、あれは生き霊だったんだろうさ。練習が潰れた事を残念に思う気持ちが、ああいう形になって現れた。
だが、昨日の俺達にはそんな事はわからなかった。
三度も死霊に遭遇したと思いこんだ坂上は、すっかり怯えきって震えていたよ。
「行こう、坂上。ここにポヘはいないみたいだしな」
恐怖心を紛らわすように、俺は坂上の手を握った。坂上は、特に何も言わずにそれを受け入れた。