嵐の放課後に
#5
俺達はポヘを探して、更に上の階へ向かった。
時刻は十八時近く……窓の外で吹き荒れる風の声は、いよいよ大きくなっていた。新校舎とはいえ、それでも築十年以上は経っているからな。時折建て付けの悪い窓がガタガタと揺れ、何処かから隙間風が入り込むんだ。それは、どうにかすると人の声のようにも聞こえてくる。低く、苦しげな呻き声だ。どうせ錯覚なんだが、一度意識してしまうと気になって仕方ない。
もしかしたらあれは風の音なんかじゃなく、本当に誰かが助けを求めているんじゃないか。あるいはこの学校に巣くう霊達が、何かを訴えているのかもしれない……。
今思えば本当に馬鹿げた考えだが、あの時の俺達は、その場の雰囲気に完璧に呑まれてしまっていた。背中にざわざわと走る寒気と、肌に滲む嫌な汗。普通に夜の学校を歩いただけでもそれなりの恐怖を味わえるだろうが、あの感じはきっと、昨日のような台風の夜でなければわからない。
俺は無意識に、繋いだ手に力を込めた。恐怖で血の気が引いていたのか、坂上の手はひんやりと冷たくてな。それが俺にはかえって心地よく感じられたよ。
──坂上は、小柄だよな。高一であの身長なんて少し心配になってしまうくらいだが、小さいのは背丈だけじゃない。あいつの手は、まるで小学生みたいだ。全体的に小作りな上にほっそりと華奢で、しかも俺の片手の中にすっぽり入っちまう。あれは、犯罪を犯しているような気分になるよ。まあ、お前にはそんな機会もないだろうけどな。
ポヘの捜索の為に、教室を調べる時は手を離した。教卓の下やカーテンの裏、掃除用具入れの陰を覗く時までくっついていたら、かえって邪魔になるからな。
そこにポヘがいない事を確認すると、俺達はまたどちらからともなく手を取って、互いの存在を確かめ合った。
……おかしいと思うよな。彼氏彼女ならともかく、男同士でさ。けどあの時は、そうせずにはいられなかったんだ。
そうこうしているうちに、俺達は科学室の前を通り掛かった。当然、ここも調べるべきだろう。俺は坂上と目を合わせ頷き合って、ゆっくり扉を開いた。
最後に使った奴が消し忘れたのか、科学室には明かりがついていた。おかげで、少し屈むだけでも机の下にポヘの姿が無い事を確認できたよ。それでも死角はあるからな。教壇の裏や部屋の隅まで探して、やはりいないとはっきりしてから、俺達は科学室を出ようとした。
すると、その時だ。背後で微かに物音がしたのさ。
「今、音がしなかったか?」
「……ええ」
俺の気のせいかもしれない。一応確認すると、電気を消そうとしていた手を引っ込めて、坂上は頷いた。
恐る恐る振り返れば、また音がする。カリカリと、何かを引っ掻くような音だ。耳を澄ましてみると、その音はどうやら科学準備室から聞こえてくる……。
科学準備室といえば、思い浮かぶ事はひとつだよな。白井先生──白髪鬼が、科学準備室の奥にある倉庫の中で怪しげな実験をしているんじゃないかって、あの噂だよ。
俺はそれを思い出して、嫌な想像をしてしまった。白髪鬼がポヘを捕まえて、実験体にする為にあの倉庫に閉じ込めたんじゃないか、ってさ。
だとしたら、助けてやりたいよな。でも、倉庫の中にまだ白髪鬼がいたら?あそこに閉じ込められているのがポヘじゃなかったら?そう、白髪鬼が実験で作り出した危険な生き物が、爪を研いでいるだけかもしれないじゃないか。
「日野先輩?」
坂上は一年だからな。白井先生の授業を受けたこともなければ、噂すら耳にした事がなかった。固まってしまった俺を心配して見上げてくる坂上に簡単に白髪鬼について説明してやると、あいつは真っ青になって準備室に駆け寄ったよ。
だけど知っての通り、あそこは普段鍵が掛かっている。昨日だけ例外なんて事はもちろんなかった。
捻ってみてもガチガチ鳴るだけで回り切らないノブに、坂上は落胆した。だが、中に白髪鬼がいるんじゃないかと思うと、ポヘに呼び掛ける気にもなれない。
お前なら、どうする?職員室から鍵を取って来て、中に入ってみるか?それとも、あの音はポヘじゃないと坂上を説得してみるか?
前者は危険だが、後者も一筋縄ではいかない。何せ、あの犬馬鹿の坂上だからな。
俺は、中に入ってみることにした。物音の正体がポヘじゃなくても構わない。俺は白井先生の実験ってやつに興味があったのさ。実は、岩山康夫を誘って一年以上前からあそこに忍び込む計画を立てていたくらいなんだ。マスターキーを拝借して、合鍵まで作ってな。本来ならあの七不思議の集会をやった頃に決行する筈だったんだが、色々と事情が重なって、昨日まで延び延びになっていた。だからこそ俺は、こんなチャンスは滅多に無いと思ったのさ。
幸い、作った合鍵は常に持ち歩いていた。俺達はそれを使って準備室に入り、更に倉庫を開けてみたんだ。
倉庫の中は真っ暗で何も見えなかったが、白髪鬼の気配は感じなかった。俺達はホッと胸を撫でおろしながらも、立ち込める異臭に顔を顰めた。
「ポヘ?ここにいるの?」
坂上はなるべく息を吸い込まないようにしながら、倉庫の中を覗き込んでポヘに呼び掛けた。俺は中に入って、壁伝いに電源を探したんだが……どういうわけか触りあたらない。そうしているうちに何かに躓きかけて、足に当たったそれを見下ろした。
カリカリ……カリカリ……。
あの音が、まさにそこからしていた。だが、ようやく闇に慣れてきた目を凝らしても、そこに何があるのかはよくわからなかった。
「ポヘ?」
俺はひとまずその場に屈んで、手探りで確かめてみた。すると、指先に何か濡れたものが触れたんだ。それは柔らかく、表面は生暖かくてねっとりしていていた。あんまり気持ちのいい感触じゃなかったな。俺は首を傾げながら、手を少しずつ移動させた。すると、今度は乾いた部分にいきあたったんだ。微かに産毛が生えた、人肌のような手触り……いや、これは、人肌そのものじゃないのか?
──そんなことを考えた時だった。俺の触れている何かが急に崩れて、誰かが俺の腕をぎゅっと掴んだんだ。
「うわぁっ!?」
「ど、どうしたんですか先輩!?」
説明するどころじゃなかった。俺は掴まれた腕を振り払って坂上の元へ駆け寄り、そのまま鍵も掛けずに無我夢中で逃げ出した。
そうして、どのくらい走った頃だったか。俺達は走り疲れて立ち止まった。
「一体、何があったんですか?」
苦しい息を吐きながら、坂上は怪訝そうに尋ねてくる。
「何かが俺の腕を……」
「腕?……………ひっ、日野先輩、それっ……!」
何気なく俺の腕に目を遣った坂上は、一瞬表情をこわばらせた。そして、歯の根が合わないほど震えながら、【それ】を指差したのさ。
つられて自分の腕を見た俺は、短い悲鳴をあげた。その途端、【それ】はボトリと鈍い音を立ててリノリウムの床に落ちたんだ。
……さっき、振り払えてなかったのさ。
【それ】は、肘の所でざっくり切断された、人間の腕だった。
俺の腕には、強く掴まれた痕がくっきりと赤く残っていたよ。