嵐の放課後に
#6
さっき、俺は言ったよな。
暗がりの中で触れたものの感触は、生暖かかった──って。
つまりそれは、この腕の持ち主が白髪鬼の実験の為に殺されてから、まだそれほど時間は経っていない、ということじゃないか……?
それなら、白髪鬼はまだ学校の中にいるだろう。
トイレに行ったのか?それとも、宿直室で黒木と仲良く夕食でも食べているのか……?
俺達は血を滴らせて転がっている腕を見下ろし、それから顔を見合わせたよ。
勝手に科学準備室に入った事がバレたら、俺達はどうなってしまうんだろう。これ以上学校にいたら白髪鬼に見つかって、この腕と同じ目に遭わされるんじゃないか。かといってこのまま逃げ出したら、残されたポヘはどうなる?
外は嵐、中は狂科学者と食人鬼──俺達はまさに窮地に立たされていた。
「日野先輩……」
立ち尽くす俺の腕をそっと掴んで、坂上は泣き出しそうな表情で見上げてきた。
瞳には薄い水の膜が揺らめき、唇は微かにわなないている。
俺の心臓はドキリと脈打った。血が沸騰し、坂上に触れられた箇所から痺れが広がっていく。
──めまいを覚えたよ。男相手に、一瞬でもときめくなんてな。
これが、吊り橋効果ってやつなのか──俺は自分の情動を受け入れきれずに、そんな事を思ってごまかした。
「僕は三階を探します。でも、先輩は外に出て、警察に行ってください」
坂上は意を決したように唇を引き結び、それから信じられないことを口にした。
「バカを言うな。こんな所にお前ひとり置いていけるわけがないだろう」
「でも……」
元はといえば、ポヘがいなくなったのは坂上個人の責任だ。坂上は俺を巻き込んだ事を後悔しているみたいだった。
だが、俺は自分から協力を申し出たんだ。今更可愛い後輩を見捨てて自分だけさっさと逃げるなんて考えられなかったよ。
「坂上」
俺は坂上の肩を正面から捕まえて、真っ直ぐに目を合わせた。
「ポヘをみつけて、全員生きてここから脱出するんだ」
「日野先輩……わかりました。一緒に行きましょう!」
俺達は転がる腕をそのままにして、再び手を取り合って歩き出した。
上履きが床を鳴らすふたつの足音だけが、雨風の音に紛れるようにして廊下に響く。
三階を見回り、いよいよ最後に南側のトイレを覗いた時だった。
肌がぞくりと粟立つような、妙な気配を感じたんだ。
──そういえば、二年の細田から聞いたことがあった。三階南側のトイレは、一際強い霊気を感じるんだ、ってな。
違和感の正体はすぐに知れたよ。校舎には俺達以外誰も残っていない筈なのに、トイレの個室のドアがすべて閉まっているんだ。
中で誰かが用を足しているんなら、それなりに衣擦れの音なんかがする筈だ。だが、聞こえてくるのは外の激しい風音ばかり。人の気配なんて微塵も感じられない。
でも、確かに【何か】はいるんだ。ヒトではない、【何か】は。
「日野先輩、どうしたんですか?」
坂上は何も感じないのか先に入って行った。俺は思わずその腕を掴んで止めたよ。
「ここは、やめておいたほうがいい。ポヘもいないだろう」
「えっ?でも」
納得いかなそうな坂上を無理矢理引っ張って、俺達はトイレを後にした。
「そういえば……」
事情を説明すると、坂上は思い出したようにあの七不思議の集会の事を話し出した。
お前も読んだだろ?坂上は細田に新校舎中のトイレに連れ回されたんだったよな。
三階の南側のトイレ。記事には「変わったことは何もなかった」、そう書かれていた。でもな、本当はおかしなことが起こったんだそうだ。
個室から妙な物音がしたり、ドアが開かなかったり……。
坂上は詳しく話したがらなかったが、そういうわけであいつもあのトイレを探索するのは諦めた。
さて、これからどうする?校舎中探してもポヘはいなかった。擦れ違ってしまったのか、最初から校内にはいないのか。
俺達は今度こそ途方に暮れたよ。
坂上に至っては、「まさか黒木先生と白井先生がポヘを鍋にして食べちゃったんじゃ……」なんて言い出す始末さ。
さすがにそれはないだろ、と思ったが、もしかしたら……という考えが過ぎって否定できない。
結局、俺は乾いた笑いを浮かべるだけで、あいつを安心させてやることは出来なかった。
時計を見ると、既に十九時を過ぎている。そろそろ家に連絡を入れないと、両親に余計な心配をかけるかもしれない。
「一度家に電話しないか」
俺の提案に坂上も賛成した。
風の声は相変わらず騒々しかったが、雨脚は若干弱まったように感じられた。その分、聴覚がクリアになって、隣を歩く坂上の息遣いが耳につくんだ。
いや、不快な感じじゃない。聞いていると、皮膚の下がざわざわとして落ち着かなくなるような……自分の中で何か得体の知れないものが首をもたげそうになるような……。ああ、こう言ってもお前にはわからないだろうな。
立ち止まる事なく進む廊下は、いつもより長く、まるで永遠に続くかのように思えた。
俺達は黒木や白髪鬼を警戒していたから、当然照明はつけていない。台風のおかげで月明りすら差し込まない暗闇の先には、次第に黒い影が浮かび上がってくる。
──ただの目の錯覚だ。そう自分に言い聞かせて歩みを進めても、何故か階段に辿り着けない。
坂上の吐息が微かに乱れた。緊張と動揺で鼓動も速くなる。坂上は後ろが気になって仕方ないらしい。振り返りはしないものの、時折首を僅かに廻らせて、また前を向くのさ。
「振り返るなよ」
俺は繋いだ手に力を込めて言い聞かせた。
「何かいるような気がしてくるのはわかる。でも何もいない。今まで通ってきた廊下があるだけだ。だから振り向くな」
「……はい」
坂上が弱々しく頷いた時だった。
一際強い風が叩きつけるように吹いて来て、廊下の窓硝子が一斉に割れたんだ。
「うわっ……」
「坂上っ!」
──咄嗟に身体が動いていた。
俺は坂上に覆いかぶさるようにして、降りかかる硝子の破片を背中に受けた。
「……大丈夫か、坂上」
「僕は平気です、けど、先輩がっ……!」
坂上は目に涙を浮かべて俺の背中に回り、悲鳴をあげた。
「ひどい……こんな、どうして!」
「はは、そんなに刺さったか?あまり痛くないもんだな。……お前に怪我が無くてよかったよ」
正直に言えば、かなり痛かった。少し動いただけで針を突き刺されたような痛みが走ったし、背中全体が燃えているように熱かった。
だが、可愛い後輩の前で弱音を吐くわけにはいかない。坂上に怪我がなくてホッとしたのは、紛れもない本心だったしな。
でも坂上は、そんなことはお見通しだったらしい。
「何言ってるんですか!痛くないわけないでしょ!?強がるのはやめてください。治療しなきゃ……保健室に行きましょう」
坂上は俺を無理矢理立たせると、勇ましく肩をいからせて、保健室まで連れていったよ。
普段のあいつと本当に同一人物かと疑うほどだったね、あれは。