嵐の放課後に
#7
宿直室を避けて移動し、俺達は保健室に辿り着いた。途中にポヘがいないか注意して見てみたが、相変わらず見当たらなかった。
「先輩、脱いでください。まず硝子を取り除きますから」
「あ、ああ……」
坂上は俺を椅子に座らせると、消毒液や包帯を準備しながら指示した。
俺は慎重に上着やシャツを脱いだが、それでも腕を動かす度に肩甲骨のあたりに痛みが走る。シャツを翻して見ると無数の破片が引っ掛かっていた。脱いだ拍子に床に落ちたものやまだ皮膚に食い込んだままのものを含めて考えると、俺の背中は一体どれだけ傷ついているのかとゾッとしたよ。
「じっとしていて下さいね」
坂上が硬い声で念を押した。緊張していたんだろう。あいつは保健委員でもなければ、どちらかといえば不器用な方だからな。
だが、治療を受ける俺の不安はそれ以上だ。医者でもない素人に、硝子の除去なんて繊細な作業を任せなきゃならないんだ。怖いに決まってる。
もしも目の前に鏡があって、坂上が奮闘する様を窺えていたなら、危なっかしくて見ていられなかっただろうな……。
坂上は息を詰め、一言も言わず丁寧に破片を取り除いていった。ひとつ抜かれる度に、肉をえぐられるような痛みを感じたよ。ひょっとしたらあれで傷口が開いたかもしれない。プロならもっと上手くやるだろうさ。それでも、そのままにしているよりはマシだ。
「……っ」
時折坂上が漏らす声にならない悲鳴のような吐息が気になったが、俺は最後まで耐え抜いた。
それから坂上は、破片が残っていないか入念に調べてから、傷口の消毒を始めた。何しろ細かい傷だからな。ピンセットで摘んだ脱脂綿に消毒液を染み込ませて、ひとつひとつの患部にそっと押し当てる。
いくらやさしくされても、あれはしみるよな。唇を噛んで堪えていたら、いつの間に消毒が終わったのか、坂上が俺の顔を覗き込んで笑った。
「そんなに強く噛んだら、唇が切れちゃいますよ」
……何故だろうな。その笑顔が、俺には眩しかった。
包帯をくるくると解いて俺の身体に巻きつけていく坂上の存在を、異様なくらい意識してしまう。脇の下を潜って胸の前に回された腕、近づいては離れる背後の気配……。
俺は急に、坂上の前で半裸になっていることに羞恥を覚えた。いや、本当ははじめから、躊躇いを感じていたんだ。
裸を見せるという事は、気負わないありのままの自分──普段隠している本性をもさらけ出す事のように思えて。
体育の授業で体操着に着替えるときはまったく気にしないのに、おかしな話だよな。
状況がそんな気分にさせたのか?──いや、違う。相手が坂上だからだ。
そうと気付いた時……それを認めた時、俺はどうしていいかわからなくなったよ。自分自身に裏切られたような気分だった。
「終わりましたよ。でもこれは応急処置ですから、後でちゃんと病院に行ってくださいね」
包帯を巻き終えた坂上は俺の前方にやってきてニッコリ笑う。目の前の男が自分に劣情を抱いているなんて知りもせずに。俺の気持ちが透けて見えていたら、坂上は決してあんな風に笑いかけたりはしなかっただろうな。
俺は坂上から目を逸らし、制服を着直した。そして目を合わせないままに立ち上がり、扉に向かって歩き出しながら告げた。
「一度部室に行ってみよう。ポヘが戻っているかもしれない」
「あ……そうですね」
坂上は多分、俺の様子がおかしいことに気付いたんだろう。今度は手も繋がず、言葉も交わさず、一定の距離を置いて並んで歩いた。
俺の手は、坂上の手のぬくもりを求めて訴えてくる。俺の腕は、さっき抱きしめた坂上の感触をもう一度味わいたいと欲している。身体中の細胞が、坂上に触れたいと叫ぶように騒いでいる!
自覚してしまうと、あとは雪崩みたいなものだな。坂上は大事な後輩なんだ、それ以上でも以下でもない。そんな風に自分に言い聞かせてみても、ダメなんだよ。
好きな奴と夜の学校でふたりっきり。……まぁ黒木と白髪鬼はいるが、そんなことなんか頭から吹き飛んでいた。
坂上とふたりっきり。もう、それしか考えられないんだ。
部室に着いたが、ポヘは戻っていなかった。落胆する坂上に少し休もうと提案して、俺は椅子に腰を下ろした。
「あっ」
その時だ。坂上が何かに気付いたように俺の前に寄って来て、手を伸ばした。
近づいてくる坂上の顔。その小さな唇に、俺の視線は釘付けになった。
──何も考えられない。
気付けば俺は、自分の唇を坂上のそれに押し付けていたんだ。
我に返って身を引くと、坂上は驚いたように目をみはりしばらく固まっていた。やがて顔を真っ赤にしたかと思うと、その細腕で俺を突き飛ばし、部室から走り去ってしまったんだ。
残された俺は、床に尻餅をついたまま頭を抱えて落ち込んだ。
坂上に拒絶されたこともショックだったが、それよりも、理性を保てずに暴走してしまったことへの後悔が大きかった。
好きでもない奴、しかも同性に無理矢理キスなんかされてみろ。俺だったら舌噛んで死にたくなる。もしくは、あまりの気持ち悪さに相手を殺しちまうかもしれない。
俺がうなだれていると、ロッカーから何かが出てきた。
「クゥン……」
犬、それもパグだ。多分こいつがポヘだろう。もしかしたら最初からロッカーの中に隠れていただけだったのかもしれない。プリントを探した時、ロッカーは確認しなかったからな。
「なんだよ、お前、こんなところにいたのか。散々走り回らせておいて……」
苦笑しながら抱き上げてやると、ポヘは逃げようとするどころか、俺を慰めるように頬を舐めてきた。
坂上が溺愛するのもわかるよ。あれはいい犬だ。けど、ご主人様に手を出した狼にまで尻尾を振るようじゃ、番犬はつとまりそうにないな。
俺はポヘを抱いたまま、再び戸締まりをして外に出た。まだ風は強かったが、一頃よりはおさまっていたな。
俺はその足で坂上の家に寄り、ポヘを坂上のお袋さんに引き渡した。坂上本人も無事に帰宅していたが、風呂に入っていて出てこなかったよ。
ああ、もちろんそのあとすぐに警察に白髪鬼のことを通報したよ。だから朝から科学室が立入禁止になっていただろう?
福沢から聞いたんだが、三階では窓が割れたせいで大惨事だったらしいな。
──そういうわけだ。長話に付き合わせて悪かったな。謎が解けて満足か?
聞かなければよかった?
……だろうな。