病欲
牛乳を喉に流し終えた直後、玄関の扉が開いた音がした。肩にタオルをかけたまま、牛乳を片手に持ったまま走った。
「臨也!」
扉の開け閉めの音で、臨也か波江か判断出来る。予想通り、そこには臨也が立っていた。
「おかえ……り?」
臨也は立っていたが、明らかにいつもと様子が違った。少し俯き気味で、纏う雰囲気に殺気のようなものが混じっている。
咄嗟に俺は身を引いた。これは臨也がかなり怒っている前兆だ。こうなった時は大体、手酷い“お仕置き”に遭う。
だが身に覚えが無かった為に、反応が僅かに鈍った。
「ねーえ、シズちゃん」
「っ?」
そう言うと臨也はコートのポケットに突っ込んでいた手を出した。黒光りする物が手に握られており、ひどく見覚えがあった。
俺の、携帯。
なんで臨也が、と当惑する俺の表情に臨也は「笑った」。
口元を歪めて目を細める行為が「笑う」と大別するならその表現が正しい。
だけど俺からすれば、眼から光が失せ、口元はぐにゃりとひん曲がっている。臨也が、「怒ってる」。
「これなーに?」
臨也は腕を持ち上げ、ディスプレイを俺に向ける。見慣れたそれはメール画面。
距離があるから当然内容は判らない。が、その前に一種の悪寒が背筋を走った。
(……え……、メール、……ロックした……はず……)
当たり前のように暗証番号を解いた臨也は凍り付いている俺から視線を外し、メール本文に眼を通す。
「随分と仲良くやってるみたいだねえ」
仲良く、の単語で記憶が弾ける。そういえば先週辺りから、クラスメイトに連休泊まりに来ないかと誘われていた。一応断ったのだが、その誘いのメールが来ていたのかもしれない。
「っそれ……泊まりに来いってやつ?」
「え? 泊まりに行きたいの?」
仰々しく臨也は両腕を上げ、驚いたような顔をしているがどうもわざとらしい。
冷や汗が出た。別件か、単なる遊びの誘いだったのか。それは中身を見ないと判らない。
臨也は弄らしく眼を爛々と光らせ、その眼光が俺を縛る。金縛りにあったように突っ立ちになったまま、臨也の言葉を待った。
「行きたいの? シズちゃん」
顔は笑ってる。でも、内心は恐ろしくどろどろに濁った怒りと独占欲を表に出さないようにしているはずだ。
言葉の催促が恐ろしく、喉から声を引き絞る。
「べ……つに、そう言うわけじゃ……」
「行けば? 勝手に。二度とウチには入れないけどね」
「っ!!」
「その気になればすぐにす、」
恐ろしさと怯えで塞き止められていた感情が爆発した。
「言うなあ!!」
叫び、縋るように臨也の腕を掴んで言葉を妨げる。まだ中身の残っていた牛乳が白い水溜りを作る事なんて意識の中に組み込まれていなかった。
俺を見下ろす臨也は笑顔の仮面すら脱ぎ去って、冷たい無表情を突き付ける。本能的な恐怖に俺は支配された。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 嫌だ臨也、言うな、ごめんもうしない! だからだからっ……!」
俺は臨也に「殺す」と言われるよりも、「死ね」と言われるよりも、
「捨てるだなんて言うな……言わないで臨也……! お前が居なかったら俺、俺っ……!」
「 」と言われるのが一番怖かった。
拾われた俺には、その言葉は死よりも重たくて。
「良いじゃん、シズちゃんに良くしてくれる同級生、いっぱい居るんでしょ? 人間ぶって甘えて尻尾振ってるんでしょ?」
「違う!」
否定の言葉が、即座に放たれる。だけどその後の言葉は続かなかった。
煮詰めたようにどろりと固まった濁った血色が俺を射抜く。一片の優しさも温かみもない、独占欲に忠実にぎらついていた。
「俺ねえ、シズちゃんを高校に行かせたのは思い知らせたかったからだよ。外は甘くないでしょ? 優しくないでしょ? シズちゃんは学校じゃ大人しいから昔ほど迫害されていないみたいだけど、万人に好かれてる訳じゃない。君を好いている少数派だって本心からかな? 単に君の暴力が怖くて愛想良くしてるだけかもとは考えないの? ああ、怖いなあ世間は。今日日の学生は大人顔負けに空気が読めるから、ひょっとしたら今頃みんなシズちゃんを貶してるのかもね! 可哀想なシズちゃん! 学業生活に満足している自分は妄想じゃないの? 上手くやれてる気になって酔ってるとかね!」
淀みなくつらつらと並べ立てる言葉は断片的にしか俺の脳には入ってこない。
昔から臨也の歪んだ愛情を一身に受けていた自分は、都合良く臨也の言葉を鵜呑みにするようになっていた。今までクラスメイトととってきた行動すべてを否定されているのに、そうかも、なんて思ってしまう辺り、俺は臨也に洗脳された玩具なんだろう。洗脳されたと気付かずこれが「俺」だと信じきる、性質の悪すぎるもの。
「っ……」
それほど大事にしている訳じゃないと思っていたクラスメイトに裏切られたと思うと、眼に涙の膜が張る。全身が震え膝を付く。掴んでいた腕からその震えが臨也にも伝わったらしく、無表情を口元を吊り上げるだけの笑みへと変換した。
そのまま唐突に俺の首を掴み持ち上げる。年上とはいえ、体格は臨也の方が細い。全力で振り払えば出来たはずのそれを俺はしなかった。ぎりぎりと締め上げてくる指に思考を放棄し、痛みや苦しみよりも臨也の表情の方が怖かった。
「っぐ……ぁ……」
「可哀想なシズちゃんに優しい俺が質問をあげよう。よーく聞いてね?」
臨也の眼から、表情から溢れているのは愛を象った狂気と独占、執着。
「シズちゃんが一番好きなのってだれ?」
「……っは……、ぃ……ぃ……ざ……や……」
喉から音が上手く出ないが、必死に声を紡ぐ。臨也の手を振り払う気なんて毛頭無かった。
「うんうん。頼って良いのは? 甘えて良いのは?」
「い……ざやっ……」
「そうだね。気を赦して良いのは?」
「っ……臨、也……!」
「俺はシズちゃんを愛してるけどシズちゃんは?」
「んんっ……俺……も……!」
最後の言葉には、夢中で首を縦に振る。答えにようやく満足したのか、臨也はにっこりと笑って指の戒めを解いた。急に入ってくる酸素に激しく噎せ返り、様々な感情が混ざった涙が伝う。
跪いて咳き込む間にも右手は臨也の腕を握ったままだった。臨也が俺に執着しているように、俺も臨也に依存していたから。
臨也は屈み込んで、指先で俺の顎を持ち上げる。零れた涙を舌で掬い、頬を撫でてくれる。何時もの動作と同じ。臨也が髪や頬を撫でてくれるのは赦してくれた合図だった。
「ごめんね、酷い事しちゃった」