それが「恋」だと、
体が震えた。臨也の空気があまりにも冷たくて、首と初めて対峙したときのような恐怖が帝人を襲う。かち、と歯と歯があたる音がして、体が震えていることも理解した。そんな帝人に視線を合わせたまま、臨也は。
「あのさあ」
ぽとりと床に携帯を落として、色のない表情のまま、臨也は言う。
「俺といるときに他の男の名前呼ぶなって言っただろ」
ガギッ、と音を立てて、携帯を踏みつける臨也の足は土足だった。一旦玄関から出て、それからそっと戻ってきたのだろう。勢い良く踏みつけられたせいで分解した携帯から、金属の破片が折れ曲がって散らばる。
「・・・なんでだよ」
怒っている、のか。それとも悲しんでいるのか。いろんな感情がないまぜになったような苦しげな顔で、臨也は唇をかみしめて乱暴に帝人に詰め寄ると、その体を勢い良くベッドの上に投げ出した。
「なんで、なんでだよ!なんで俺がこんなに優しくしてるのに、なんで君は逃げようとするんだよ!なんでこんなに君を大事にしてるのに、俺に酷いことさせるような行動を取るんだよ!」
怒鳴る臨也の声は、どこか悲痛で。
そうしてその目から、ボロリと一筋の涙がこぼれ落ちるのを、帝人は見上げていた。とっさに、手を伸ばしてその涙を拭おうとしたら、触れる前にその手をつかまれる。そのままベッドに押さえつけられて、さらに馬乗りになってきた臨也の体制を考えれば、これから何をされるのかについてすぐに思い当たった。
彼は帝人を好きだといった。
彼は帝人にキスをしてハグをする。
帝人は臨也にキスをわれても抱きしめられても、抵抗はしなかった。だって別に嫌ではなかったから。だから、本当はそれ以上のことを許容できるのではないかと思わなかったといえば嘘になる。例えば臨也が、君を抱きたいと、あの顔でお願いするのなら、多分帝人は抵抗しなかっただろう。けれどもこれは、こんな状況は、予想もしていなかった。
うそ、と息を飲んだ帝人に、やっぱり傷ついたような顔をして、臨也は。
「俺だってこんなこと、無理やりしたくなんかないんだよ」
掠れた声で、帝人のシャツに手をかけて。
「ごめんね、でも、許せない」
そうして酷く耳障りな音を立てて、そのシャツを引き裂いた。
あとはただ、獣が獲物を喰らい尽くす様に似た、捕食の時間。
「・・・っ、う」
重たい頭を揺さぶって、帝人はのろのろと上半身をおこした。どれほど気を失っていたのかわからなかったが、外はすっかり暗くなっている。ぼんやりと時計を見れば、夜中の九時を回っていて、そう言えばおなかがすいたかも知れないと、そんなことを現実逃避のように考える。
蛍光灯は一番小さな電球だけをつけていた。乱暴に引き裂かれたシャツの残骸がベッドの端に引っかかっている。さっきまで行われていた臨也との行為を思い出し、酷くいたたまれない思いからそれをひろおうとすると、腰に鈍い痛みが走った。
思わず顔をしかめて、もう一度ベッドに倒れこむ。
汗とその他の液体でベタベタだっただろう帝人の体は、それでも綺麗に拭かれて事後処理をほどこされていた。臨也はどんな思いでそれをしたのだろうかと考えると、余計にいたたまれない。
足かせがじゃらりと音を立てて、開け放たれたドアからは食事の匂いが流れこんでくる。お腹はすいていたけれど、あんなことをしたあとでがつがつ食事をする気分にもなれない。それに、最中に繰り返された臨也の声が耳から離れなくて、帝人は思わず腕で目を覆った。
ごめんね、と。
ごめんね、ごめんね、痛いよね、と。
嫌いにならないで、ごめんね、と。
こんなことしなくないんだ、でも許せない、君は俺のものなのに、なんで、と。
うわ言のように、泣きながら、帝人に訴え続けた臨也の声が、今も帝人の体の中で反響してグルグルと回る。
目を覆う腕を上げれば、手首にくっきりと残っているのは臨也の手形だ。ギリギリと締め付けるように押さえつけられた手首。どれほど痛いと言って帝人が暴れても、びくともしなかった。もし、その行為が乱暴に、完全に一方的にされたものだったならまだよかった。まだ、臨也を思い切り嫌ってかたくなな態度を取れる。けれども彼は最後の最後まで丁重な手つきで帝人に触れたから。泣きながら、謝りながら。
まるでお仕置きというよりは、帝人に快楽を覚えさせるかのような抱き方をした。思い出すと羞恥心に負けそうだけれど、ゆっくりと首を上げて自分の体を見下ろすと、何の魅力も特徴もないはずの自分の平らな胸に、無節操に刻まれた所有印が散っている。
ああ、あの人は本気で帝人のことが好きなのかと、そう思うほどにさらにいたたまれない気持になった。少なくとも彼は首に対しては、博愛的な、欲とは縁のない顔をしていたから。きっと体には興味がないのだと思っていた。顔さえあればいいのだろうと。帝人が首と同じ顔をしていたから自分のものにしたかっただけで、帝人個人に対する欲情などきっと臨也は持たないに違いないと思っていたのに。
あれは、あの抱き方は、あの声は、ずるい。
逃げるのが正解のはずなのに、これでは、逃げようとした帝人のほうが悪人みたいじゃないか。
「・・・起きたの、帝人君」
不意に声がして、開け放ったままだったドアから臨也が姿を現した。薄暗い部屋の明かりではその表情までは良く見えない。この男はこんな、激情とは無縁のような顔をして、その豹のようなしなやかな体にあれほどの欲情を抱えていたのか。そう考えると帝人は気まずさに視線をそらすことしかできなかった。
だってあんな、なんども繰り返し求められて奪われて。
ぐちゃぐちゃに混ざり合って。
こんなにたくさんの所有印を刻まれて。
それで冷静に顔を突き合わせられるほうがどうにかしている。
けれどもそんな帝人の葛藤をよそに、そらされた視線にますます傷ついたらしい臨也は、小さな声で、すがるように呼びかける。
「帝人君、ねえ・・・逃げないでよ」
そっと近づいてきたその、少し前まで帝人を貪っていた指先で、慈しむように頬をなでる。まるでここにいることを確かめるような慎重な仕草で。
そして、祈るように床に膝をついて、投げ出されていた帝人の手を握り締めた。
「逃げないでよ、逃げないで。俺から離れていかないで、俺には君しか要らないんだ、君だけが俺の唯一無二なのに、それなのに俺を見限らないでよ」
そのまま2度、3度、形のいい唇が帝人の手のひらに触れる。なんと答えたらいいのかわからず、途方にくれる帝人に、泣きはらして赤い目をあわせて。
そして臨也のその目からは再び、ぽろりと透明な涙が零れ落ちた。
「・・・きらいになったら、いやだよ・・・・」