それが「恋」だと、
第五話 / 嫌いにならないで。
帝人に転機が訪れたのは、そんな軟禁生活も5日を過ぎようというころだ。
基本的に臨也は自ら宣言したとおりに、帝人に対して酷いことは何もしなかった。時折名前を呼ばれてキスされるのと抱きしめられることを除けば、まるで病人をいたわるような臆病な優しさで接してきた。何か変わったことはないか、不自由なところはないか、退屈していないか、事あるごとにそんなことを聞いて、帝人の暮らしやすいようにしてくれる。だから帝人は、つい、ズルズルとそのままの生活を許容してしまう。
しかしいい加減、しっかりしなくてはいけない時期だと思う。
帝人は一人きりの部屋でため息を付いて、心地良い風を奥てくるクーラーをぼんやりと見つめながら、思う。
逃げなくてはいけない、と。
あまりに居心地が良すぎて、このままではここにいることが本当に当たり前になる。
それはどこか間違っていると思う。
誰かここに第三者がいてくれたなら、きっと帝人に、そのままじゃ駄目だと言ってくれただろう。今帝人は、その声が切実に欲しかった。
誰か、誰でもいい。
言ってくれないだろうか、逃げなきゃいけないと。
ここにいたら帝人がだめになると。
誰かがそう言ってくれたなら、目が覚めるきがするのに。帝人は大きく息を吐いて、唇を噛み締める。臨也は帝人の為にポータブルゲームでも買ってきてあげるよと言って出かけていた。そんなことしなくてもいいと思うのに、臨也は俺がそうしたいんだと言って取り合わない。
帝人は、ゆっくりと立ち上がって広い寝室の片隅に設けられた棚の前に移動する。そこには、あの日の首が緩やかに水の中に漂っていた。
「帝人君の首なんだから、帝人君のところに置くよ」
そんな意味のわからないことを言って臨也がこの部屋に首を置いたのは、軟禁生活1日目のことだ。最初は怖くて布をかけておいたのだけれども、その布はすぐに臨也がとっぱらってしまうので最近ではもう諦めた。
寝る前、朝一番。
臨也が帝人に声をかける前に、真っ先にその首に寄って、当たり前のように口付ける姿をみている。それを見てイライラしてしまう自分の心情にも、そろそろ自覚しなければいけないのだろう。
「・・・すき、」
声に出してみれば笑ってしまうような感情だ。
本当にどうしようもない。
折原臨也というその人間に、おそらく最初の最初から興味があった。それこそネット上のチャットで甘楽として会話をしはじめた最初の頃からずっとだ。けれども決定打になったのは多分、あの時のキス、だろう。
あんな情熱的なことをするような人間には、見えなかったのに。
縋るような泣き出す寸前のようなあの顔と、普段の彼と、軽い冗談に隠された彼の意図をあとで知るときの衝撃と、逃がさないとでも言うように帝人の体を抱きしめた時の手の震え。そういうものの全部を含めて、帝人は見事に臨也を愛しいと思ってしまったのだ。
首の漂うガラス容器を指でつつく。
安らかに眠り続ける自分の顔。臨也が愛しているのは、本当の意味で恋をしているのはこの首だけだ。決してそれは帝人自身ではない、勘違いしてはいけない。
そう言い聞かせて、帝人はため息をこぼす。同時に、がたんと大げさな音が響いてきて、臨也の帰宅を告げるのだった。
慌てて首から離れるのは防衛本能のようなものだろうか。首と対峙しているところを見られて、ついに帝人君の首だと認めるんだね、とでも言われたら厄介だ。いつものようにベッドの端っこに座り込んで、テレビをつけようか迷ったけれど、今から電源を入れたら臨也にばればれなのでやめる。すぐに、寝室のドアが開かれた。
「やあ帝人君、お待たせ」
「・・・はあ」
待ってないです、とはさすがに突っ込めない。この空間で、話し相手として臨也はとても貴重な存在でもあるので、すねられても困る。
ただいま、とでも言ってくれたら。そうしたらおかえりと返せるのに、と、そんな小さなことにふてくされそうになる自分を諌める。
「はい、これプレゼント。ソフトは適当におすすめの買ってきたから」
「あ、りがとうございます」
「どういたしまして。でも俺と一緒にいるときはゲームはだめだからね」
構ってくれないと怒るよ、と言われて、やっぱり帝人は困ったようにはあ、と答えた。それから少し考えてテレビの電源を入れる。画面にはグルメ番組がうつって、あまり見たいとは思わなかったけれどBGM代わりに付けたままにしておいた。
外から返ったばかりの臨也が、コートを脱いで帝人の座るベッドの上に放る。そしてそのまま帝人の足に足かせをはめると、ちょっと失礼、と一言帝人に言って、トイレに入っていった。
「・・・あ」
帝人はその時、天啓のように閃いた。
ついさっき逃げる事について考えていたせいもあるけれど、ベッドに投げ出された黒いコートのせいでもある。
臨也は普段、あのモッズコートに5・6台の携帯電話を仕込んでいる。今は休業中なので、メインのもの以外は電源を切った状態で、そのままコートの内ポケットにつっこんであった。
帝人はここしかない、と判断した。素早くそのコートに手を突っ込み、いくつもある携帯のうち一つを取り出してタオルケットの下に隠した。
ドキドキと胸が高鳴る。それは臨也を出し抜くという非日常のせいなのか、それともこれが発覚したらどうなってしまうのだろうと思う恐怖のせいなのかわからなかったけれど、臨也が戻ってくる頃には帝人は平常心を装ってテレビの画面を見ていた。
「何か面白いものでもやってるの?」
問いかける臨也に、そうですねえ、と。
「臨也さん、桃が食べたいです」
丁度テレビで旬の食材がどうのという番組をやっていて、レポーターが丁度桃を試食していたのだ。食べたいと思ったのは本当だったが、目的は彼を外出させることにあった。案の定、帝人に甘い臨也は、「そう、じゃあ買ってきてあげるよ」と笑って、コートを片手に出て行く。
帝人はしばらく耳を済ませて、聞こえてくる音から臨也の動きを読む。足音は迷い無く玄関へと向かい、カシャン、と鍵を外す音。ギイ、とドアを開ける音、バタン、とドアを閉める音、最後にもう一度カシャン、と鍵が閉まる音。流石に外の音までは拾えないけれど、そこまで分かれば帝人には十分だ。
急いでタオルケットの下に隠した黒い携帯電話を取り出し、電源を入れる。しばらくのタイムラグの後、起動した携帯の充電は1本だった。もってくれ、と願いながら、暗記していた親友の電話番号を震える指で押す。
携帯を耳に押し当てて、コールの音を聞いた。1回、2回、3回。いつもならこのあたりで出てくれるのだが、今日はタイミングが悪いのか。それとも知らない番号からの連絡に戸惑っているのかも知れない。
正臣、正臣、早く!
祈るような気持ちで帝人はコール音を聞いている。やがて、耳慣れた電子音のあとに、親友の声が聞こえてきた。
『もしもし、どちらさま・・・』
「正お・・・」
帝人が名前を呼ぼうとした、その時だ。
ガツッと手のひらから携帯が奪われて、はっと顔を上げた帝人の目の前に、臨也がゆらりと立った。
「臨也、さん」