それが「恋」だと、
第八話 / 悪夢の淵から帰っておいで
「っ・・・いざ、や・・・さ」
か細い声が漏れている喉。
白い喉。
ドクドクと脈打つ動脈のリズムが、臨也の手のひらに伝わる。
動いている、温かい、首。
「・・・や、め・・・」
げほげほと帝人が咳き込むと、そのせいで手に確かな感触が押し付けられて、臨也は喜びに息を吐く。
苦しげに涙をためる帝人の顔を、もっとよく見たくて身を乗り出す。床に組み敷いたその華奢な体は臨也を押し返す力もなく、そんな脆さがたまらなく愛しい。
ああ、愛してる愛してる愛してる。
たまらず唇を押し付けたら、帝人はさらに苦しげな息を漏らした。それはそうだろう、何しろさっきからぎりぎりと帝人の首を締め付けているのは臨也の両手だ。全然力を込めてはいないけれど、多分もう少し力を込めたらこの生命は。
簡単に。
手折る、ことが。
「・・・ははっ」
自分のものとは思えないほど乾いた、薄暗い声が臨也の喉からこぼれ落ちる。
「あははは、は・・・っ」
熱で焼ききれそうな脳裏を抱いたまま、臨也は笑った。声高に、狂ったように。
腕も声も体もすべて震えているのに、腕から力が抜けない。ちがうやめろ俺はそんなことがしたいんじゃない、内側から叫ぶ声は脳裏に響くけれど、残響が大きすぎて上手く聞こえてこなかった。理解出来ない、だって帝人は温かい。
「あはははははは!」
息がしづらい、苦しい、それでも臨也は笑う。本の数センチの距離で見つめた帝人の瞳が、血の気の失せた顔が、徐々に濁っていく様子を見つめながら笑い続ける。
愉快だ、楽しい、可愛い、愛しい。
押し寄せる感情は麻薬のように臨也の手に力を込めさせる。何かが必死で内側から呼びかけて、やめろ殺すな愛してるんだと叫ぶけれど、そんな声で止められるような衝動ではなかった。
そうそれは甘美な衝動。
かはっ、と酸素の入らない口を開けて、帝人が天を仰ぐ。その、苦しげにもがいていた目が見開かれて、やがて諦めたように閉じられるまでを、スローモーションのように見つめて。ああ、ああ。ぞくぞくと臨也の背中をかけてゆくのは、これは、どんな感情だっただろう、思い出せない。
そうして。
そうして?
臨也は帝人の首を切り取る。
鮮やかな赤をすすりながら、冷たくなっていく体温を感じながら。
大切に大切に、ガラスの瓶に詰めて保存するために。
「ぅ、あああああああっ!!」
叫んだその声の響きを、臨也は自分で忘れることができないだろうとさえ思った。絶望にあふれた夢の淵から飛び起きた体は、酷く汗ばんで呼吸が荒い。カーテンからはまだ光が入らない、真夜中の絶叫。
「・・・ざや、さ?」
ガタガタと震える体を抑えようとしたところで、隣から掠れた声が響いた。そろそろとそちらを見れば、帝人が澄んだ瞳で臨也を見上げている。
「どう、しました?」
横たわるその姿が。
夢のなかの帝人と不意に重なる。
「っあ、あ・・・!」
心臓が不規則に跳ねて、臨也は言葉に出来ないほど混濁した、不可解な、重たい感情に心を潰されそうになる。
夢だ、夢だ、あんなのは夢だ、分かっているのに。
それでもあの感触が、帝人の首のぬくもりが、確かに脈打っていた帝人の動脈のリズムが、両手に思い出されるような気がして臨也はひゅうと喉を鳴らす。
怖い。
自分自身が、あんな夢を見てしまうほど追い込まれた魂が。
怖い。どうしようもなく怖い。
見つめる帝人の目が、怖い。
「っ!」
喉元に沈殿して吐き出せないままくすぶる感情が、臨也の脳裏を支配しようとする。必死になって息を吸い、震える指先で頭を抱えて。
「臨也さん?本当に、どうし・・・」
「今近づくな!」
あまりの態度に不思議に思ったのであろう帝人の指が伸ばされるのを、臨也の中の本能が拒絶する。今触られたらまずいと、一瞬で理解する。
生きていて欲しいとわかったばかりなのに、どうしてあんな夢を見てしまったのだろう。わからない理解出来ない、怖い、ただ、純粋に。
「・・・こわ、い」
つぶやいた声が酷く震えている。
この手が、この両手が帝人を殺した。そして帝人の体から首を切り離して、その首を大事に抱えてガラスの容器に入れたのだ。
この手が。
この手が!
ベッドから転がり落ちるように帝人と距離をとって、臨也はハンガーにかけてあった自分のコートに手を伸ばした。携帯電話の類を持ち歩くことは、「あの日」からやめている。だがその内ポケットには、あいかわらずナイフがしまってあった。
帝人に刺されるならそれで構わないと、思っていたのだ。
誰かに助けを求めるのは許せない。でも自力で逃げるというのなら、それを引き止めるための手段を臨也は持たない。帝人にとってここに閉じ込められるということが、「人を刺す」という、その手を汚す行為より耐え難いというのならば、甘んじて受けようと思っていた。
そうして臨也に、帝人の手で傷を刻まれるというのなら、それはそれで彼が生きて動く人間であることの、一つの証のようで。
「臨也さん!何をしてるんです!」
普通ではない臨也の様子に気圧されていた帝人が、はっとしたように叫ぶ。臨也はナイフの刃をぱちりと出して、震える手でそれを自分の手首にあてがっていた。
まるでこれから自殺をするとでもいうように。
「臨也さん!」
蒼白の顔で、帝人がベッドから立ち上がる。
臨也は、本当に酷く震えていて、その、真っ白に血の気の失せた顔で呆然と自分の手首を見据えながら。
その、ナイフを。
「臨也さん!」
バシッと音を立てて、ナイフを持っていた右手が叩かれた。もともと余り力をこめて握れていなかったナイフが、あっけなく壁に向かって飛んでいく。
呆然とそれを目で追う臨也の顔を無理に自分のほうへ向けて、帝人が必死の形相でもう一度問う。
「臨也さん!何をしているんですか!」
強く、強く見返してくる瞳が。
臨也は、とても。
「何、って・・・」
掠れた声で答えようとしたけれど、今自分に巻き起こった衝動を、どう説明すればいいのだろう。ただ、両頬に置かれた帝人の手のひらの温かさだけが、震えるほど愛しかった。
「俺の、手が、悪いから」
答えたなら目からは勝手に涙が零れ落ちた。臨也は本来とても泣き虫な男なのだ。小さなころからずっとずっと、とても泣き虫な、弱い生き物だ。
首を手にしてからはそれが顕著で、さらに、帝人の前ではもっと顕著だ。
「・・・夢でも、見たんですか?」
すっかり見慣れてしまった臨也の泣き顔に、帝人が多少冷静さを取り戻した。そのまま頬に添えた手で、涙をゆっくりと拭う。耐え切れないとでも言うように顔をくしゃりとゆがめて、臨也は「ゆ、め?」と呟き、そのまま帝人を抱き寄せた。
「夢、そう、夢、なんだよね、夢だ」
「臨也さん?」
目を閉じれば生々しく思い出される血の匂い、首を絞めた皮膚の感触、耳から離れない苦しげな吐息。
生きている存在が刻む音。
それを、この手で絶やし、止めるという悦楽。
リアルに浮かんでくるそれらの群像が声にならない悲鳴となって臨也の中を駆け巡る。嫌だ、怖い、あんなふうに、いずれ俺は。
「手なんかいらない・・・!」
浮かんだ考えは酷く恐ろしいものだった。