それが「恋」だと、
第二話 / ああ、仕方が無いなあ。
晴れ渡る青空の下を、黒いコートを翻して歩く。
最近、このコートを見るたびに、あの子は微妙に眉をひそめる。まあ、誰がなんと言おうとこれは臨也のこだわりなので、脱ぐことはないのだけれど、それでもあの子にうんざりした顔をされるのは少し嫌だなあと思わないでもない。大方暑苦しいと思われているのだろう。
竜ヶ峰帝人が高校に入学してから数カ月。
世間一般的には、今日から長い夏休みのはじまりだ。
来良高校は今日は午前中で授業も終わるはずだし、今の時間帯ならばきっと家にいるだろう。明日から夏休みだというくらいで、はしゃぎまわるような子じゃないことくらいは知っている。
午後三時の真夏の日差しから逃げるように木陰に立ち止まって、携帯電話を取り出すと、臨也はたった数分の間で溜まってしまったメールに目を通して必要なものにだけ返信をする。明日から情報屋を休業にするために、この数週間はろくに寝れないくらいに無理をした。それもこれも全部、全部、彼のためだ。
まあ、そんなこと彼は知らないわけで、知る必要もないわけだけれども。
「・・・不毛だねえ」
誰にともなく呟いて、臨也はメールを終える。あと返事が来るのを待つ相手は二人、指示を出す必要があるのは一人。それが終われば、長いこと情報屋として動いてきた自分が初めてとる長期休暇だ。
帝人が4月に池袋にやってくるまでは、臨也の計算通りに物事が進んだ。面白いほどに。追い詰められた紀田正臣が親友を呼ぶことなんて、簡単に分かることだったし、大きくなりすぎたダラーズを心配して帝人がそれに乗るだろうことだって予想の範囲内。まあ、運び屋と帝人が接触したのは少し予想外だったし、あの首事件の時に見た彼の一面は非常に心地良かったけれど、それも含めて、事態は臨也の思うとおりの方向に動いていると言って過言ではない。
なのに、ひとつだけままならないことがある。
それが、帝人と臨也との、この距離感だ。
帝人を自分のそばに置くことを考えて、有能な助手になりそうだった波江は引き止めずに逃亡させた。セルティの首も、自分で保管する意義を見出せずによそへやった。未だに臨也のデスク上に鎮座するのは、帝人の首だけ。その首を、彼に見せたいと思うのに、彼は臨也に対してとても慎重に接してくる。
おおかた、紀田正臣に何か吹き込まれたのだろうけれど、全く面白くない。小動物のように警戒を顕にして、決して臨也に踏み込むまいとかたくなに体をこわばらせるその様子を見ていると、俺を見ろと、無理にでも引き寄せたくてたまらなくなる。そしてみっともないくらい声を上げて、その体を抱きしめて泣いてしまいたい衝動にかられるのだ。
本来、臨也はとても泣き虫な男だ。
人前で泣くのは絶対に嫌だけれど、一人きりの部屋の中で、よくボロボロと泣いていた。その理由は色々とあったけれど。何か詰め込みすぎた重たい感情が、臨也の中で音を立てて崩れたとき、寂しくて、悲しくて、たまらなくなってしまうのだ。
思い返してみれば、そんなのはあの「首」が臨也の手元にやってきてからだ。臨也は今も、昔も、これからもずっとあれにすがって、あれを心の拠り所としていくのだろう。ただひとつの、唯一の存在として。
セミの鳴き声をBGMに、臨也は古ぼけたアパートのドアを叩く。
「はーい?」
中から響く声を耳にしただけで、臨也はこれほどまでに胸が弾むというのに。だというのに、彼は未だに臨也のことを何も知らない。不公平だとは思わないか。
「どなたさ・・・って、臨也さん?」
「やあ帝人君、明日から夏休みだね」
何の警戒もなくガチャリとドアを開けた帝人が、やっぱり臨也の黒いコートを目にして顔をしかめた。暑苦しい、と顔中で訴えるその表情が、嫌いではない様な気もする。
「お土産にジュースあるけど?」
ひょいと、すぐそこの自販機で買ったペットボトルを手渡してやると、帝人はぱっと表情を変えて、ありがとうございます、と頭を下げる。本当に、いちいち規則正しく動く子だ。
「わあ、冷たい、生き返る・・・!」
「何、中そんなに暑いの?」
「だって家、クーラー無いですから」
もう、汗だくで、とペットボトルに頬を押し付ける帝人をじっと見て、臨也はその頬に触れたいと思った。熱さに上気したその頬ならば、あの「首」よりずっと温かいはずだ。臨也は昔からそれが欲しかった。
その、何か温かいものが、欲しかったのだ。
「扇風機は?」
「は、一応あるにはあるんですけど。もともと熱い空気をかき混ぜるだけっていうか」
「あはは、都会の熱さをなめてたんでしょ?田舎と比べると、アスファルトの照り返しやクーラーの放熱でめちゃくちゃ暑いからね」
「っていうか臨也さんも、すごく暑そうなんですけど」
それ、夏でも脱がないんですか?と信じられないものを見るような目でコートを指差す帝人の、きょときょととした目が可愛らしいと思う。そんな臨也の思考回路も、いい加減熱さと疲れに、侵食されているのかも知れない。
「ねえ帝人君さ、今から時間ある?」
コートのことには触れずに、にっこりと笑って尋ねれば、戸惑うような目が向けられる。ああ、その警戒心をどうにかして突き崩してやりたい。そうしてあの「首」にするように、口付けて君は俺のものだよとささやいてやりたいと、臨也は思う。
「えっと、あの、」
「この部屋暑いよね?俺、暑いところで話ししたくないし。おやつぐらいおごってあげるから、ファミレス行こう?」
「え、あ・・・」
帝人は少し迷ったように声をつまらせ、それからファミレスなら大丈夫だとでも判断したのだろう。ちょっと待ってください、と告げて一度引っ込むと、すぐにジャージをジーンズに履き替えていつもの斜め掛けバックを持って顔を出した。
「お待たせしました」
「はい、じゃあ行こうか」
大方、熱のこもった自宅にいるのが嫌だったんだろう。誘いに乗ったからってうぬぼれるほど臨也は状況を楽観視していない。ファミレスに行くのはいいけれど、その後が問題だ。
「あの、臨也さん、それで話って・・・?」
不安そうに見上げる顔に、若干イラつきを覚える。
臨也にしては大事に大事に、丁寧に接しているつもりだ。こんなに優しくしてあげるなんてめったに無い。というか、初めてだ。それなのに彼はまだ、臨也にちっとも心を許さない。
不公平だ。
なんども思ったことをもう一度思って、それからちらりと少し下にある彼の顔に視線を合わせる。そのつるりとした頬を伝って、一滴、汗が流れ落ちた。
臨也は魅入られたようにその汗の流れを見つめる。
あの「首」を水からだしたときに流れ落ちる雫の、その流れと全く同じそれを。瞬間、手を伸ばして吸いつきたい衝動にかられて、そんな自分を必死で抑制する。
「首」は臨也のもの。
ならば「首」と同じ顔をしている彼も、臨也のものだ。それが当たり前で、運命なのだと、何度も思ったことをもう一度思う。臨也は今まで我慢して我慢して、ゆっくりゆっくり彼の警戒を解くために努力してきた。それなのにどうして未だに彼は、臨也をこうして警戒し続けるのだろう。
ありえない。
「臨也さん?」